「今が一番幸せ」という高峰秀子の晩年の暮らしぶり・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1367)】
東京・文京の東京ドームで開催中の「ふるさと祭り東京――日本のまつり・故郷の味」を楽しんできました。因みに、本日の歩数は11,465でした。
閑話休題、『女優にあるまじき高峰秀子』(斎藤明美著、草思社)は、私の好きな高峰秀子の考え方、生き方を覗き見する愉しみを提供してくれます。
「ほっといてくれ。高峰とは、そういう人だった。女優をやめ、執筆をやめ、毎日、好きな読書と夫のために食事を作るだけの生活。『今が一番幸せ』。晩年、口癖のように、高峰は言っていた。その面差しの、老いて何と晴れ晴れしく美しかったことか。死ぬまで『売り手市場』であり続けた女優・高峰秀子――。これほど欲望のない人を、私は知らない」。
「毎日をどう生きるか、どんな生活を送るか、それが高峰にとって最も大事なことだったのであり、それが結果として太らなかったという事実を残した。それだけだったと思う。朝六時に起きると、夫を起こさぬようにそっと雨戸を開けて、洗面所で顔を洗い歯を磨き、髪をとかして身づくろいをする。台所に行って、前の晩にカウンターに用意してあるコーヒーメーカーでコーヒーをたて、夫が食べるリンゴ半分、ヨーグルト、そしてカフェオレを作る。朝食が終わると、後片付けをして、午前中は手紙の返事や礼状書き、時には執筆。やがて支度して、十一時半に昼食。終わると後片付けをして、夕食のしたごしらえをしておき、午後は大好きな読書をする。夕方四時半にもなれば、おもむろに台所に行って本格的に夕食を作り・・・。特別な用事が入らない限り、高峰はこれら一日の行いを、五分と違わず、毎日続けた。儀式のようだった。三度の食事以外、間食はもちろん、コーヒー一杯口にしない人だった。それが大女優・高峰秀子の暮らしであり、『今が一番幸せ』と言わしめる日常だった」。
「彼女(高峰)の自伝『わたしの渡世日記』を読めばわかる。私は高峰に出逢うずっと前に初めてこの本を読んだ時、彼女が二十代半ばで妻ある男と泥沼のような関係になっていたという記述を読んで、目を疑った。何もこんなことまで書かなくても・・・と思う一方で、この人はすごい人だと思った。書くからには嘘やきれいごとは書かない。そういう著者の覚悟が見えて、圧倒された」。私の『わたしの渡世日記』に圧倒された経験があります。
「容易には人に心を許さない。悪い言葉で言えば猜疑心が、高峰にとって、松山善三という人に出逢うまで、己を守る唯一の武器であり、黙ってじっと人間の有様を観察することが、学校へ行けない彼女に残された勉強の場だったのだ。何が善で何が悪か。何が美しくて、何が醜いか。人に頼らず、自分自身で判断する」。
「その人のものをみんなはがしてみて、それでもその人が好きかどうかを考えてみる――。果たしてこのような基準を持つ女性がどれだけいるだろう?」。
「高峰が自分で勝手に考えていた結婚の時期、三十歳。その四カ月前、つまり昭和二十八年の夏、一人の青年が高峰秀子に交際を申し込んだ。瀬戸内の小豆島で、木下恵介監督が高峰を主演に『二十四の瞳』という映画を撮影していた時である。それは、横浜郊外の農家の納屋の二階に住む、給料日に五目ソバを食べるのが唯一の贅沢だった、当時松竹の四段階システムの下から二番目であるサード助監督、高峰より一歳年下の、松山善三という青年だった。『高峰秀子さんと交際させてください』。青年は、師匠である木下監督に言う。・・・月給一万二千五百円に対して映画一本のギャラが百万円、片や映画界に入ってまだ三年のサード助監督、片やキャリア二十五年の大スター、知名度ゼロに対して、『日本国 高峰秀子様』で海外から手紙が届く超有名人・・・。確かに二人は『釣り合わなかった』。・・・そして彼女は続けた。『いい人はいい仕事をするだろうと思いました』。昭和三十年三月二十六日、高峰秀子は結婚した。それは半年の交際を経た、奇しくも高峰三十歳、最後の日だった」。
「何しろ二十九歳の夫が『高峰邸』に運び込んだ『財産』は、リヤカー一杯の古本だけ。知名度はゼロ。脚本家をめざすと言っても先は不明だ」。
「私には今でも忘れられない光景がある。台所で菜っ葉を洗いながら、高峰がポツリと言った言葉である。『かあちゃん(=高峰)は小さい時から働いて働いて・・・。だからきっと神様が可哀相だと思って、とうちゃん(=松山)みたいな人と逢わせてくれたんだね』。あの時の高峰の笑顔――。『三カ月もたない』『三年で別れる』と記者たちに賭けまでされた『釣り合わぬ』男女は、死が二人を分かつまで、見事に連れ添った」。
高峰という女性の素晴らしさ、見事さを再認識しました。