5人の青年男女が集団自殺に至るまでの一部始終・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1371)】
千葉・印西の「白鳥の郷」には、北方から約600羽のハクチョウが渡ってきています。ここのハクチョウはほとんどがコハクチョウですが、コハクチョウより大型で、嘴の黄色部が先端に食い込んでいるオオハクチョウと、嘴の大部分が黒色のアメリカコハクチョウも僅かながら交じっています。羽が灰色っぽいコハクチョウの幼鳥もいます。私の隣でハクチョウを撮影していたバード・ウォッチャーから、コクマルガラスの写真の提供を受けました。私が憧れのコクマルガラスに出会えるのは、いつになるのでしょうか。因みに、本日の歩数は18,086でした。
閑話休題、『透明標本――吉村昭自選初期短篇集(Ⅱ)』(吉村昭著、中公文庫)に収められている『星への旅』は、青年男女の集団自殺に至る一部始終が淡々と描かれています。5人の男女はロープで繋がり、崖から海へ落下していきます。
「三宅は画塾に、槙子は美容学校に、有川は予備校に、望月は定時制高校にとそれぞれ籍をおいてはいたが、ほとんど出席する気配もなく、ただかれらの最大の関心事は時間の経過だけで、時計の針の動きをひんぱんに見つめるのがかれらの共通した習性になっていた。つまり、かれらは、(予備校をさぼっている)圭一と同じように全くなにもすることがなく、それがかれらの表情に時に物悲しい色をかげらせるにちがいなかった」。
「かれらは、こんな風にそれぞれに異なった意見をいだいて、時折り思いついたように倦怠感を追いはらおうと突飛な企てを口にし合っていた。女をさらって共有の玩弄物にしようとか、集団強盗をしてみようとか、一風変った提案もなされていたが、その度に愚かしい気分が支配していつの間にか立ち消えになってしまうのが常であった。その後のかれらの表情には悲しみをふくんだ色が濃くただよい、一層深い沈黙の中にしずんでいった。だが、旅立ちのことを望月が口にした時は、いつもとは全く異なっていた。その企てを、望月は、『死んじゃおうか』という投げやりな言葉で表現したのだ」。
「翌日、かれらは、少し変っていた。上気した眼をして陽気に笑うかと思うと、不意に黙りこんだりしていた。仲間たちの間に、今までにはなかった得体の知れぬ活気が流れはじめていることはたしかだった」。
「圭一は、かれなりにそのはっきりとした動機もないらしい死の意味を、なんとなく理解できるような気がしていた。旅立ちが、いつの間にか自然の成行きのように圭一たちの間で決定され、三宅を中心にしてその内容が入念に組み立てられていった。初めの頃感じられた死に対する悲壮感は徐々に影をうすめ、かれらは、死という言葉を陽気にもてあそびながら旅の企てを熱心に検討し合った」。
「圭一は、無言のまま北国の海らしい冴えた水の輝きを見つめた。旅をくわだて、その計画どおりに旅をつづけ、現実に目的の海を眼の前にしていることが、感慨深く思えた。が、同時に、仲間たちが、実際にあの海で死を実行するのかどうか、かすかな疑念も湧いてきた。それにしては、かれらは余りにも陽気すぎる。気紛れなかれらは、死という刺戟的な言葉を利用して集団旅行を試みただけのことではないのか。かれらと交渉を持ってからまだ日も浅い圭一には、正直のところ、かれらの実体はつかめないでいる。だが、それはそれとして、グループの者たちと旅をし積極的にこの地点に到達できたことは、それだけでも十分に意味がある。今までこれほど一つの行為に自分自身を没入できたことがあっただろうか」。
「かれら(=村落の者たち)に比べれば、自分たちにははるかに恵まれた豊かな生活環境がある。それなのに、不遜にも生きることに飽いたというのはどういうことなのだろう。冷静に考えれば、自分たちには、死をもとめる意味はなにもないのかも知れない。圭一が旅立ちに参加したのは、日々の平穏きわまりない倦怠から脱け出たいねがいと同時に、仲間たちのかもし出す熱っぽい雰囲気に同調した傾きがある。若さの持つ虚栄心・意地から、その環の中にとどまろうという姿勢を維持しつづけているだけにも思える」。
やりたいことが多く、いつも時間が足りないと感じている私、これまで知らなかったことを知り、これまでできなかったことができるようになったことに喜びを感じる私、倦怠を感じたことがない私、生きることに飽くどころか、死の直前まで読書を続けたいと考えている私に、本作品は、私とは全く正反対の考え方や行動があり得ることを教えてくれました。