榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

歌川広重の「東海道五十三次」は、司馬江漢の「東海道五十三次」を元絵として描いたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2054)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年11月28日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2054)

カンツバキが花を咲かせています。オギの穂が風に揺れています。イチョウの落ち葉が黄色い絨毯のようです。コイ、ムクドリ、フレンチ・ブルドッグをカメラに収めました。因みに、本日の歩数は12,458でした。

閑話休題、『司馬江漢――「東海道五十三次」の真実』(對中如雲著、祥伝社)は、私たちの知的好奇心を激しく揺さぶります。

本書で著者が訴えたいことは、3つにまとめることができます。

第1は、歌川広重は東海道五十三次を歩いていない、彼の「東海道五十三次」は司馬江漢の「東海道五十三次」を元絵として描いているという主張です。

巻頭に、江漢の図と広重の図が、五十三次の各々について、見開きのカラー写真で比較検討できるように掲載されています。例えば、「小田原」は、このように説明されています。「江漢図の山は箱根ではない。霊山の大山(おおやま)であり、川は相模川である。写生地点は寒川神社にもほど近い『田村の渡し』であるとわかった。そもそも江漢図は『日本勝景色』であって、『五十三次』を描くことにこだわっていない。広重は『小田原』を描くにあたり、江漢図の大山を箱根連山に描き替え、麓に(江漢が描いていない)小田原城を配したが、その位置にはかなり無理があった」。広重は江漢図を見て、川は酒匂川であり、その渡しから箱根山を遠望した図と受け取ったに違いない、だが山容が箱根山とは違う、そこで箱根らしくゴツゴツした山容とし、さらに、小田原らしく見せるため、その麓に小田原城を配したのだろう(それにしては、城の方角が違うが)というのです。

「(広重が東海道五十三次を歩いていないということは)もはや専門家の間では暗黙の了解事項となったといってもいい。それに対して江漢は、延享4(1747)年の生まれで、広重より50年早い。没年は文政元(1818)年だが、その生涯に少なくとも3度東海道を往復している。その最後の旅が、文化9(1812)年から翌春にかけてのものだった。江漢の『五十三次』じゃ、55点すべてスケッチした地点が特定できる。その描写はきわめて正確で、現地に足を運び、実景をベースにして描写したことに疑問の余地はない。1810年代の風物として矛盾する要素も見られない」。

第2は、このことが広重の画業を貶めることにはならないという主張です。

「広重の『東海道五十三次』に元絵があるからといって、その価値や魅力が変わるということは全くない。なぜならば、広重の『五十三次』には広重の個性が55枚全図に躍動しているからだ。北斎にもない新感覚であり、人物の汗の匂いがし、色彩も広重らしい。そもそも風景を忠実に写すということでいえば、どんな絵画でも写真にはかなわない。また芸術に、自然の理に合っているかどうかという評価基準はない。時代は江戸時代である。広重の真骨頂は、『浮世絵としての評価』であり、『オリジナリティー』の評価ではない。グラフィック・デザイナーとしての広重の魅力を大いに評価すべきである。広重は『蒲原』で、江漢の構図を活用、咀嚼した上で、雪の降り摘む夜の宿場町のたたずまいを詩情豊かに描いた」。

第3は、江漢は、世に伝えられる「ホラ吹きで、ハッタリ屋で、功名心の強い、奇人変人」ではなく、先進的な画法に通じた画家であるばかりか、蘭学者であり、地動説を信じる科学者でもあったという主張です。

「『もしも歴史上の人物で一人だけ逢えるなら、私は司馬江漢を選ぶかもしれない』とは、かの日本文学研究者ドナルド・キーンの言葉である」。

強い説得力を有する一冊です。