江戸時代の先進的な画家・司馬江漢は、地動説を広めようとしていた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1379)】
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閑話休題、司馬江漢が西洋画の技法などを取り入れた、江戸時代後期の先進的な画家であることは承知していたが、彼が地動説を理解し、世に広めようとしていたことは、『司馬江漢――「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(池内了著、集英社新書)で初めて知りました。
「江戸時代の1750年代から1815年頃にかけて活躍した、司馬江漢という一筋縄ではいかない人物がいた。まず第1に、彼は江戸時代の日本を代表する優れた画家であった。・・・(江漢が)日本において最初に地動説を世に広め、無限宇宙論の入り口に立っていたということを発見したからだ。江戸時代には暦学者や天文学者もいただろうに、科学とは縁遠いはずの町絵師が地動説に興味を示して人々に紹介し、果ては点々と星が分布する宇宙にまで想像を馳せていたのである。その先見性に強く惹かれたのであった。よくよく調べてみると、彼は『窮理学』(西洋科学)に凝って人文地理学や世界の成り立ちについて学んだことが発端で地動説や宇宙像まで論じ、さらには得意の銅版画や文章で宇宙の姿を広く人々に知らせた。いわゆる江戸後期の町民文化の華が咲いた時代に、博物学的立場から文化の高揚に寄与した人物と言える。彼は、西洋科学を日本に紹介した、日本初の『科学コミュニケーター』であったのだ。西洋科学が拓いた新しい世界を嬉々として語る、その積極性に感激したこともある」。
本書の魅力は、画家、西洋科学紹介者としての江漢に止まらず、その人間味にも肉薄していることにあります。江漢は、反封建的・反権力的思想の持ち主であり、誰もが平等であるとの思いを抱いていました。そして、多芸で愉快で面白い人物でしたが、蘭学仲間の間では嫌われ者であったことが書かれています。「江漢が蘭学仲間から排除された経緯を取り上げる。彼は西洋に憧れ、蘭学を学びたいと思ってはいたのだが、多才な江漢と言えども語学は不得手であった。前野良沢に弟子入りしたが、良沢は教授することを好まず、江漢もオランダ語を学ぶ熱意に欠けていたからだ。一応蘭学仲間には加えられていたのだが、江漢の不遜な態度や野人的生き方は蘭学者たちの幕府に忠実な姿勢とは合わず、決裂することになった。その結果として、江漢は友人にも恵まれず孤独な晩年を送ることになるのである。自業自得とはいえ、頑固な江戸っ子という江漢の側面を見る思いがする」。
本書によって、江漢というユニークな人物がもっと世に知られるようになることを願っています。