自分より好きになった人のなんの根拠もない言葉ひとつで、やり過ごせた夜が確かにあった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1380)】
シジュウカラ、ヒヨドリをカメラに収めました。
閑話休題、ウェブで連載された小説とはどういうものだろうという興味で、『ボクたちはみんな大人になれなかった』(燃え殻著、新潮社)を手にしました。
「彼女はグラビアアイドルのようなカラダではなかったし、野心家でもなかった。よく笑う人で、よく泣く人だった。酔った席で思わず熱心に彼女のことを話すと、よっぽど美人だったんだろうねぇと言われることがあるが、彼女は間違いなくブスだった。ただ、そんな彼女の良さを分かるのは自分だけだとも思っていた」。
「劇的じゃない人間同士が、ありふれた待ち合わせ場所で誰からも注目されずに静かに出会った。すごいブスを覚悟していたので、ふつうのブスだった彼女にボクは少し安堵した」。
「1995年の夏の終わりに彼女に出会って、秋の初めにはもう彼女への気持ちは引き返せない場所にいた」。
「一枚の絵で人生が変わったという人間や、一冊の本で人生が決まったという人間を今までボクはどこかで軽蔑していた。だけど、彼女と出会ったこの日、ボクは止まっていた自分の人生の秒針がカチカチカチと動き出したことを確信した。決断力のある人間に見られたくなった。行動力のある人間だと信じてほしかった。彼女の前では、自分に正直な人間になるよりも、自分が憧れる人間になりたかった。生まれて初めてボクは頑張りたくなっていた。ボクはもう彼女に、恋をしていた」。
「彼女の言動は、西の空に突如現れた未確認飛行物体の動きのように解析不能だった。たけどその変な女の子が、ボクの人生を普通じゃないと思えるものに変えはじめた」。
「エクレア工場を辞めた日。ボクたちふたりは人生で初めて、渋谷円山町のラブホテル街に向った」。
「妹と同居していた彼女と、仕事仲間とルームシェアをしはじめたボクは、このラブホテルで過ごす週末の一日が唯一の生きがいになった」。
「妄想や仕事の愚痴なんかを言いながら、ボクたちは現実逃避をするように抱き合った。抱き合っている時だけは将来の不安と地球の重力から解放される感覚を味わえた。暗闇の中で必死に彼女に手を伸ばす。いつも冗談ばかり言っている彼女が、求めてくる時にだけ見せる真剣な眼差しが好きだった。彼女の汗の匂いはとても懐かしい匂いがした」。
「ただ振り返って唯一ひとり、代わりがきかなかった人が彼女だった。始まった時は軽い気持ちだった。ほとんどの薬物患者がそうであるように、何の気なしに始めてしまい、気づいた時には彼女がいないともうダメだった。彼女に教えられたのは、心の傷ってやつにもいろいろあって、時が癒してくれる傷と、膿のようにずっと心の底に居着く傷があるということだった」。
「好きな人のすべてが正義になる。そんな恋の魔法にボクは初めてかかっていた」。
「彼女のこの思いつき旅行に、ボクは季節の変わり目ごとに付き合わされることになる。彼女の中で南はバカンス、北は駆け落ちということになっていた。その日の気分で駅を決め、降りた街を散策し、知らない公園でブランコに乗ってぼんやりしたり、初めて入る古本屋で立ち読みをしたりした。店構えがいいラーメン屋を見つけてはふたりでよく食べた。美味しいもの、美しいもの、面白いものに出会った時、これを知ったら絶対喜ぶなという人が近くにいることを、ボクは幸せと呼びたい」。
「生きていると言葉なんかじゃ救われない事ばかりだ。ただその時に寄り添ってくれる人がひとりいれば、言葉なんておしまいでいい」。
「その日も夏の荒れた天気の、普通の一日のはずだった。だけど、この日が彼女とあのラブホテルで過ごした最後の一日になった」。
「ボクが一番影響を受けた人は、戦国武将でも芸能人でもアーティストでもなく、中肉中背で三白眼でアトピーのある愛しいブスだった」。
「自分より好きになった人のなんの根拠もない言葉ひとつで、やり過ごせた夜が確かにあった」。
「彼女は、学歴もない、手に職もない、ただの使いっぱしりで、社会の数にもカウントされていなかったボクを承認してくれた人だった。あの時、彼女に毎日をフォローされ、生きることを承認されることで、ボクは生きがいを感じることができたんだ。いや今日まで、彼女からもらったその生きがいで、ボクは頑張っても微動だにしない日常を、この東京でなんとか踏ん張ってこられた」。
人生で、たった一度きりであろうと、「自分より好きになった人」に出会えた人は、本当に幸せ者ですね。読んでいる最中も、読み終わっても、恋愛至上主義者の私の心は、温かいポタージュのように蕩けっ放しでした。