陸奥宗光の生涯を知って、意外だった3つのこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1392)】
雪が積もった林で、ハクセキレイ、ヒヨドリ、キジバト、ハシボソガラスをカメラに収めました。カケスに遭遇したのに、撮影に失敗。しかし、棲息場所を絞ることができたので、撮影成功まで頑張るぞ。雪をまとった枯れ枝を見て、スタンダールの『恋愛論』の「愛の結晶作用」を思い出しました。我が家の多胡灯籠も雪を被っています。因みに、本日の歩数は10,408でした。
閑話休題、『陸奥宗光――「日本外交の祖」の生涯』(佐々木雄一著、中公新書)を読んで印象に残ったことが、3つあります。
第1は、当時の最大の外交課題である英国、米国等との不平等条約の改正を成し遂げた功労者という面が強調される陸奥宗光だが、実際は国内政治での活動が主であったこと。
第2は、陸奥が才気走った人物で、これはという時の実力者――坂本龍馬、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋など――に取り入り、彼らからかわいがられたが、仲間からは快く思われていなかったこと。
「陸奥は、自他ともに認める才子であり、能吏であり、策士であった。そして同時に、学究肌の智の人でもあった。・・・政治指導者が優れた理念や深い見識を持っているにこしたことはない。しかしそれを現実化するには、権力政治の世界を生き抜く意志と力が必要である。その点、陸奥ほど、知識人の風貌を持ちながら政治への意志を前面に出していた政治指導者は、近現代の日本史上まれであろう。権力のなかに生きた知性を活写したいというのが、本書の狙いである」。
「陸奥自身、『小悧巧な小才子』とみなされることを恥とは感じていなかったものと思われる。腕力ではなく智、地縁や血縁ではなく能力を尊重すべきという考えを、陸奥は終生、持ち続けていた」。
それにしても、明治天皇が陸奥に不信感、嫌悪感を抱いていたという指摘は意外でした。「(日清戦争の準備を進める)陸奥に対し、強い疑惑の目を向けていたのが、明治天皇である。明治天皇は、大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることならば戦争を避けたいとも考えていた。そして、かつて政府転覆計画に関与した陸奥を信用していなかった。対立や分裂を煽りそのなかで台頭していこうとする陸奥の性格も、よくわかっていたのだろう」。
第3は、陸奥の2番目の妻・亮子が、陸奥の指導よろしきを得て、外交官夫人として目覚ましく成長していったこと。
「(最初の妻が亡くなった明治5年)陸奥は金田亮子と結婚した。亮子もまた新橋の芸妓であった。陸奥29歳、亮子は17歳である。二人の間には翌年、長女の清子が生まれている」。「陸奥はしばしば、書物を読み、和歌を学ぶなど、何か学習をするよう亮子に勧めた。大志を抱く自分の伴侶として教養を身につけてほしいというのである」。「勉学について言えば、亮子は、着実に陸奥の期待に応えていったようである。陸奥の亮子宛の手紙は、日を追うごとに明らかに漢字が増え、内容も高度になっている。陸奥は読書から進んでさらに新聞の社説を読むことを勧め、陸奥が帰国する頃には、亮子は『時事新報』の社説などを読むようになっていた」。陸奥の駐米公使時代の「ある日の新聞は、亮子について、美しく洗練されていて博識と書き、陸奥のことも紹介したうえで、陸奥夫妻は急速に社交界で人気を得ていると報じた。・・・亮子はいわば単に飾り物として陸奥の横にいたわけではなく、次第に活躍の場を広げていった。・・・人の取りさばきや饗応、機転の妙といったところは、亮子の得意分野だったのだろう。ワシントンの社交界でも、亮子のもてなしの評判は上々だった。愛嬌がある、人を引きつける、といった賛辞が並ぶ。西洋の流儀と東洋らしさがうまく融合していると見られていたようである。アメリカ到着当初はほとんど話せなかった英語も、半年ほど経つと上達していたらしい。社交の場には、しばしば娘の清子も出席している」。
評伝というと、とかく対象人物を持ち上げるものが多い中、陸奥の長所も弱点もきちんと公平に扱っている点が、本書の特色となっています。紀州藩出身のため、藩閥政治の世界では後ろ盾がいないという立場に置かれた陸奥が、自分の才能を武器に、それをアピールして道を切り拓くべく、実力者に接近したのは已むを得なかったというのが、私の考えです。むしろ、よく頑張った生涯であったと評価すべきでしょう。