榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

和歌の恋歌の世界と、漢詩の恋歌の世界がこれほど異なるのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1420)】

【amazon 『いにしえの恋歌』 カスタマーレビュー 2019年3月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(1420)

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閑話休題、『いにしえの恋歌――和歌と漢詩の世界』(彭丹著、筑摩選書)は、和歌と漢詩とを対比させながら、その共通点と相違点を多角的に考察しています。中国出身で、日本において教鞭をとる日中比較文学研究者の手になるだけあって、その見解は説得力があります。

「和歌は本来、漢詩への対抗意識をもとに成り立ったものである」。「漢詩を土台にして生まれた和歌は成熟し、その独自の世界を形成してゆく。私が独自と言ったのは、和歌と漢詩は題材にしても形式にしても厳然と異なる別個のものであるからだ。良い例は恋歌(こいうた)である。和歌には恋歌が多く、漢詩には恋歌が少ない。同じ抒情詩であるが、なぜ和歌に恋歌が多くて、漢詩には少ないのか。また、和歌と漢詩における恋歌の世界はどのように相違するのか。和歌は漢詩と相通じながらも、何ゆえに、漢詩と異なる独自の世界を創りあげることができたのか。また、どのようにして自らの個性を発揮し、漢詩と異なる独自の世界を創りあげてきたのか」。

「和歌の歌人は自由に恋愛ができたのに、作中では恋を秘し、恋人の容貌を秘し、不自由な忍ぶ恋の苦しみを訴える。一方、漢詩の詩人は自由に恋ができなかったのに、作中ではまるで本当に恋をしているかのように、現実性に富む世界を創り上げる。和歌と漢詩に見られるこの逆転現象は何を意味するのか。(在原)業平はなぜ忍ぶ恋をし、(曹操の息子)曹植はなぜ神女との恋を作品にするのか。業平と曹植を例に、和歌と漢詩の秘する美の世界を明らかにしてみたいと思う」。

「壁を乗り越えたり、番人の目を盗んだり、人前で(業平が)忘れ草や(藤原基経の妹・高子が)御衣を贈ったりして、二人の恋は隠れるどころか、むしろ世間を無視するずうずうしさすらある。公然の秘密のような恋は、もう忍ばなくてもよいのではないか。しかし、業平は歌の中で忍びつづける。なぜなら、忍ぶことによって、雲の上の恋の効果をつくりだすことができるからだ。また忍ぶことによって、恋を見え隠れにすることができるからだ。では、雲の上の恋の効果とはなにか。雲の上の恋は、雲にまとわれて、朦朧にして神秘的な美をもつのである」。

「漢詩詩人の曹植は好んで雲の上の神女に恋をする。・・・日本の王朝貴族は噂のために恋を隠すが、曹植にとっては噂どころではない。露見したら命が危ない。業平の作り出した忍ぶ恋よりも、曹植の恋こそが真の忍ぶ恋と言えよう。・・・現実で恋ができないから、仙境での恋に憧れる」。

「業平や和歌の歌人は実際にあった真の恋を秘して『忍ぶ恋』を詠み続けた。曹植や漢詩の詩人は心に秘めた恋を真のように見せ神女恋を謳歌した。忍ぶ恋、神女恋、そして夢の恋。それらは根底において通じ合う。いずれも見え隠れして、真か假(け)か、虚か実か、真々假々、虚々実々が錯綜し、縹渺としておぼつかない。花は花にあらず、霧は霧にあらず。朦朧にして神秘な美の世界である」。

「(女流詩人)李清照と(江南国の君主)李后主の恋歌は、個人の恋を超えて、宇宙の永遠を見る。一方、(平資盛の恋人・建礼門院)右京大夫と後鳥羽院の恋歌は、閨中の恋の刹那を凝視する。恋はもともと私的な情感であり、深閨の恋にこだわることに何の不思議もない。だが、李清照や李后主の作品から分かるように、漢詩の詩人は閨の恋を表現しながらも個人を超え、一個の悲しみを超え、広大永遠の天地宇宙にまなざしを向けてゆく。同じ恋とは言え、漢詩の恋は宇宙に広がる壮大な恋であり、和歌の恋は一局に閉じこもる精緻な恋である。漢詩の恋歌は永遠を志向し、和歌の恋歌は刹那に凝縮する。和歌と漢詩にこの相違をもたらしたのは、宇宙観の違いではないだろうか」。

「有限の中に無限を見る。一微塵から宇宙万物を見、刹那から永遠を見る。仏教的な宇宙観は、右京太夫や後鳥羽院の恋歌を閨の刹那に閉じこめる。いっぽう、李清照と李后主は、閨の個人の恋から天上人間に視線を移し、広大な宇宙に永遠と闊達を求めた。天地を俯仰自得する道家荘子の宇宙観は、漢詩の恋を天地宇宙いっぱいに広げたのである。恋の刹那から宇宙を見ることと、恋を永遠の宇宙に置いてみること。恋歌から見る日中それぞれの宇宙観。茫々たる大海が日本と中国を地理的に隔てるように、宇宙観の違いはまた日本と中国を精神的に隔てる。和歌と漢詩はその意境を異にした」。