榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

実力と美貌を謳われた俳人・橋本多佳子の真実に迫った、清張のモデル小説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1629)】

【amazon 『月光――松本清張初文庫化作品集』 カスタマーレビュー 2019年10月3日】 情熱的読書人間のないしょ話(1629)

カルガモ、ハシブトガラス、ニホンアカガエルをカメラに収めました。休み時間になると、我が家の真ん前の小学校から、子供たちの元気な声が聞こえてきます。因みに、本日の歩数は10,592でした。

閑話休題。『月光――松本清張初文庫化作品集』(松本清張著、双葉文庫)に収められている『月光』は、俳人・橋本多佳子をモデルにした短篇小説です。なお、この作品は、元は『花衣』というタイトルだったが、後に『月光』と改題されました。

多佳子については、38歳の時に死別した夫への追慕の思いが迸る、「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」、「雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ」、「息あらき雄鹿が立つは切なけれ」、「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」など、官能的な香りが立ち籠める句を作ったこと、杉田久女に俳句の手解きを受け、後に山口誓子に師事したこと、実力と美貌を謳われた感性豊かな俳人だった――ということぐらいしか知りませんでした。

『月光』では、全ての人物が実名ではなく、仮名で登場します。登場人物の中で際立って個性的なのは、多佳子、久女、俳人仲間の西東三鬼の3人です。久女の凄まじい人生、三鬼の破滅型性格と行動が、松本清張の容赦ない筆致で抉り出されています。

清張自身が50歳近い多佳子に初めて面会した時のことが、このように綴られています。「悠紀女(=多佳子)が現われたとき、眼がさめるという形容そのままであった。あたりがうす暗いので、彼女の白い顔やきれいな着物が浮き立っている。レンブラントの描いた絵にはこういうのがある。悠紀女はどうしても三十すぎくらいにしか見えなかった。髪は豊かで、顔は面長ながら少し下膨れである。特徴は、眉が上り気味で眼がきれいなことだ。眉と眼の間のうすい翳りも理知的な感じで、通った鼻筋と緊(ひきしま)った唇は美しい。それでいてなまめかしさがある。背の高い人だから、上手な着物の着こなしに気品があった。自分は圧迫をおぼえた」。

「おそるべき君等の乳房夏来(きた)る」という句で知られる三鬼が執拗に多佳子に言い寄るものの、毅然と拒絶される有様が活写されているが、真に驚かされたのは、以下の件(くだり)です。

「(悠紀女の死後)自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。対手は京都のある大学の助教授であった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。ある夏の講習会に悠紀女がその助教授の古典文学の話を聞きに行ったのが縁のはじまりだったそうである。二人はだれにも知られずに逢瀬をつづけた。伏見のある家がその場所だったという。よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句の現われたころであった、不昂(=三鬼)の(彼女には男がいるという)直感は当っていたのである」。若くして夫と死別した悠紀女は、男たちの誘いに乗らず、長らく空閨を守り続けたと思われてきたのです。

「(悠紀女は、複雑な性格でわざと悠紀女を困らせ悲しませる)彼と何度別れようと決心したかしれなかった。だが、若くして何も知らないうちに夫を喪った彼女には、もう、その男ときれいに手を切ることはできなかった」。この一節に至り、遣り切れなさが胸の底に沈澱していくのを覚えました。