ロシア革命を、子どもたちはどう見たか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1492)】
芳香を放つニオイバンマツリの花は、咲き始めは紫色だが、やがて白色に変わっていきます。オオスカシバが級蜜のため、ニオイバンマツリの周りを飛び回っています。そのゼンマイ状の口吻が見えます。スズメバチを捕らえるトラップが仕掛けられています。底部に、捕捉されたスズメバチが見えます。サトキマダラヒカゲ、水浴びをするヒヨドリ、カルガモをカメラに収めました。総苞が赤いベニバナヤマボウシの花、総苞が白いヤマボウシの花が咲いています。因みに、本日の歩数は10,110でした。
閑話休題、『子どもたちの見たロシア革命――亡命ロシアの子どもたちの文集』(大平陽一・新井美智代編訳、松籟社)には、ロシアから亡命した子どもたちの64の作文が収められています。
M・ヒトロボ(モラフスカー・トシェボバー・ロシア語ギムナジウム8年男子)の作文には、こういう一節があります。「一見したところ全てが穏やかだったが、『何か』が迫ってきていた。恐ろしい何かが私たちの方に、ロシア全土に押し寄せつつあり、どこかで巨大な何かが起こりつつあった。・・・革命はやって来るなり、穏やかで平和な町の暮らしをめちゃくちゃにした。次から次へと政治集会が行われ、演台で演説が続いた。いたる所で赤い旗やプラカードが目につき、政府機関や薬局から(ロシア帝国の紋章の)双頭の鷲が消えた。・・・革命は私たちには理解できない秩序に従い、順調に進行していった。・・・町は立ちすくんで静まり返り、息をひそめた。誰もがつぎに何が起こるのかと固唾をのみ、誰もが殺人の恐怖に麻痺したかのようだった。・・・ペトログラードとモスクワにおけるボリシェビキのクーデターの後、私たちの町でも『あらゆる権力』がソビエトのものとなった。将校2名、弁護士1名、そして豪商2名を殺害し、ブルジョア数名を人質にとるとおとなしくなった。それから荒廃、物価の高騰、無政府状態、無法状態が訪れた。住民は飢えに苦しみ出し、不満が昂じた。いたる所で銃撃戦、略奪、殺人、暴力が行われた。ソビエト政権に『報復された』村々が炎に包まれた」。
名前不詳(プラハ・ロシア語ギムナジウム3年女子)の作文の一節。「赤旗をもった人びとが『インターナショナル』を歌いながら、通りを行進していた。・・・その頃、どこか近くの村で(ボリシェビキの)コミッサールが殺されたというので、パパも含め男の人全員が逮捕され、客車に乗せられてモスクワまで連行された。・・・家宅捜索が毎日あった。お酒を探したり、武器を探したりしていた。市場や通りでは一斉取締が行われていた。・・・ある時、いくら待ってもパパが帰ってこなかった。一斉取締があってつかまり、かわいそうなパパはまた監禁されたのだ。反革命取締非常委員会かブティルカ監獄に入れられるまで1ヶ月もなかった。・・・反革命家と見なされた人は、反革命取締非常委員会で銃殺された。おそろしい出来事にはきりがなかった。政府がクレムリンに入ると、クレムリンに行くことが禁止された。あちこちの広場にレーニンやトロツキーらの記念碑が木で作られた。・・・食料品を買うのはとても難しく、物々交換の方がまだしも可能だった。・・・店は閉まっていた。屋根は雪の重みで崩れ落ちていった。最後の服もすり切れてきたし、食べる物は何もなかった」。
氏名不詳(プラハ・ロシア語ギムナジウム4年女子、1908年1月13日生まれ)の作文の一節。「ユダヤ人虐殺が始まった。なぜか残酷になり、他人の不幸を喜ぶようになった人びとは、お店のウィンドウを割り、盗めるものなら何でも盗んだ。・・・そっと気づかれないようにボリシェビキが接近してくると、すぐにいろいろな食糧委員会だのソ連人民委員会議だのが始まった。家宅捜索、略奪、銃殺が始まったが、まだそんなにひどくはなかった。最後に、インテリはブルジョアだと言われて、だんだんと迫害と弾圧を受けるようになった。・・・あちこちから『いまいましいボリシェビキ』に対する不平や、まもなく『味方』がやって来るという知らせをうれしげに伝える声が聞こえてきた。・・・銃殺が再開され、それが何度も何度も繰り返された。哀れな民衆は、どこに逃げてよいのか分からなかった」。
本書に収録されているのが、反革命側の人間の、しかも子どもの作文であることを差し引いても、ボリシェビキによるロシア革命が民衆に大変な犠牲を強いた実態が生々しく伝わってきます。