榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

古典の勉強をしながら、橋本治ワールドも楽しめる一石二鳥の一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1498)】

【amazon 『これで古典がよくわかる』 カスタマーレビュー 2019年5月26日】 情熱的読書人間のないしょ話(1498)

東京・杉並の天沼~井荻を巡る散歩会に参加しました。蓮華寺、天沼稲荷神社、猿田彦神社、市杵嶋神社、三峯神社、天沼熊野神社、大鷲神社、意安地蔵は、初夏の緑に包まれています。妙正寺池では、カルガモの親子が元気に泳ぎ回っています。因みに、本日の歩数は20,096でした。

閑話休題、『これで古典がよくわかる』(橋本治著、ちくま文庫)には、橋本治の古典観が凝縮しています。正直言って、私の古典解釈とは異なる点もあるが、大変勉強になります。

「いたって大胆な、ハシモト式古典読解法」は、このようなものです。「『うーん・・・、藤原定家って人はすごいな・・・』と感心したんです。べつに、古典は『教養』じゃないんです。・・・私の最大のとりえは、『古典を恐れない』ってことなんですね。『へー』だけで古典に入ってったっていいんです。・・・古典をわかるうえで必要なのは、『教養をつけるために本を読む』じゃなくて、『行き当たりばったりで<へー>と言って感心してる』の方なんです。・・・『教養』というものは、使うんだったら、こういうふうに強引に我が身に引き寄せる方向で使うべきですね――と私は思います」。

柿本人麻呂の<あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む>の歌について、橋本は大胆な解釈をしています。「有名なこの歌を見ると、『ほんとになに言ってんだかな』という、いたって幸福な気分になります。『あしびきの』は、『山』にかかる『枕詞』で、『山鳥の尾のしだり尾の』は、『長い』にかかる『序詞』なんですね。つまり、『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』には、なんの意味もない。『山鳥の尻尾は長くたれている――だから<長い>』、ただそれだけです。この歌の意味は、ただ『えんえんと長い夜を一人で寝るのか・・・』だけです。なんだかわけのわからない言葉をえんえんと読まされてきて、意味はそれだけ。『え、そんな楽な解釈でいいの?』と、私は高校生だった昔に、喜びました。・・・『人間の感情を素直に歌い上げる』はずの『万葉集』の中に、こんな冗談みたいなものが入っているなんて、なんだかとても嬉しくなりました。『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』だけで前半を終わらせてしまうなんて、『内容空疎の技巧本位の極み』みたいなもんでしょう? それが『日本文化を代表するようなものの一つ』って、なんだか嬉しくありません? 『かも寝む』の『かも』は、辞書や文法の本を見ると、ややこしいことがいろいろと書いてありますが、要は、『その下にくる言葉を強める』です。つまり、『かも寝む』とは、『寝るのかよォ』ですね。『こんなに長い夜を一人で寝るのかよォ』が、日本を代表する天才的歌人・柿本人麻呂の『有名な作品』です。『ああ、やだやだ』という気持ちが強いんでしょうね――それだから『かも寝む』と強めてるんですね。夜の長さにうんざりしている。そうすりゃ、『あしびきの山鳥の尾のしだり尾の』という、わけのわかんないつぶやきも出るでしょうね。だから、この歌は、『うんざりするような夜の長さを巧みに表現している』になりますね。きっと、誰もこんな『解釈』はしないでしょうけどね。・・・この歌の前半は、『意味のない言葉をえんえんと並べるほど長く退屈だ』ということをちゃんと表現している、重要なものなんです」。さすが橋本、なかなかの説得力ですね。

後鳥羽上皇の<桜さく遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな>の歌は、柿本人麻呂の<あしびきの山鳥の尾の・・・>の本歌取りです。「『桜が咲いている、一日中ずーっと眺めていても飽きないな』という歌です。『万葉集』の柿本人麻呂の歌の後で、これを『くだらない、内容のない、技巧本位の歌だ』と言えますか? 私は、この歌を見ると、『後鳥羽上皇という人はすごい人だな』と思います。悠然とかまえて、一日中桜の前にすわってるんですよ。『いやー、いいなー、飽きないなー』と。こんなことできます? その、見事な桜を目の前にした『感想』っていったら、ただ『飽きないなー』だけなんですよ。この歌は、それしか言ってないんですから、常人にはちょっと真似のできない芸当です。『万召集』の『あしびきの山鳥の尾の――』の人は、その『独り寝の夜の長さ』を持て余してるんですよ。でも、この上皇さまは、持て余してなんかいない。悠然とすわってます。そんな余裕は、常人にはないですよ。おまけに、単純にしてのんききわまりないこの歌には、ちょっとだけ『技巧』も入ってるんです。・・・『あしびきの』を『桜咲く』に変えて、そこに『遠』の一文字を持ってきただけで、雰囲気はガラッと変わるんです。それが『技巧』なんですね。『ああ。飽きない』でぼんやりすわってるだけの上皇さまは、とんでもなく頭のいい人なんです。だから私は、『こんな歌を詠む後鳥羽上皇というのはすごい人だな』と思うんですけどね」。本歌取りの技巧が、巧みに説明されています。

著者は、若い頃の兼好法師=ウラベ・カネヨシくんは、『枕草子』のようなものを書きたがっていたというのです。「『徒然草』第十九段は、ほとんどそのまま、『若い頃の兼好法師=ウラベ・カネヨシくんの書いた<枕草子>』なんです。この『徒然草』第十九段は、『季節の移り変わりっていうのが、ホント、一々ジーンとくるんだ』という書き出しで始まって、『春の景色』『春の花』『初夏の頃』と続けて、『一年』を清少納言風の随筆に仕立てています。・・・『こうやって言い続けると、みんな<源氏物語>や<枕草子>なんかで言い古されてるのに似てるけど、同じことだからって今ここで言わないわけじゃないぞ。なにしろ、思ってること言わないのは欲求不満になるんだから――』で、『見てくれなくてもいい!』に続くんです。ウラベ・カネヨシくんが『見なきゃいいだろ!』とイライラする理由って、わかりましたか? ウラベ・カネヨシくんは、華やかなりし王朝時代に書かれた『枕草子』や『源氏物語』が好きなんですね。それにすごく影響されてて、自分もそういうものを書きたかったんですね。そして、書いたら、『枕草子』や『源氏物語』に似ちゃうんです。『あれー、こんなはずはないのに・・・』と思って、『チクショー!』とイライラするんです」。

第十九段のどこに『源氏物語』が入っているかというと、<六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり>のところは、『源氏物語』の「夕顔」の巻のイメージをそっくり頂戴しているというのです。こんなに兼好法師が『枕草子』や『源氏物語』に憧れていたとは、うっかり者の私は気がつきませんでした。

「古典が教えてくれることで一番重要なことは、『え、昔っから人間てそうだったの?』という、『人間に関する事実』です。『なーんだ、悩んでるのは自分一人じゃなかったのか』ということは、とっても人間を楽にしてくれます。古典は、そういう『とんでもない現代人』でいっぱいなんです。この本の中で紹介したのは、その中の『ほんの一端』なんです。どうか古典を読んでください」。

古典の勉強をしながら、橋本治ワールドも楽しめる一石二鳥の一冊です。