榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

良寛が生涯、「生年」、「出奔」、「出奔中の在所」を語らなかったのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1619)】

【amazon 『良寛の実像』 カスタマーレビュー 2019年9月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(1619)

実りの秋ですね。因みに、本日の歩数は10,974でした。

閑話休題、『良寛の実像――歴史家からのメッセージ』(田中圭一著、刀水書房)では、良寛信奉者たちが良寛を美化するあまり真実が隠されてしまったと慨嘆する著者が、厳密な史料批判を行うことによって、良寛の実像に実証的に迫っています。

良寛が生涯語らなかったことが3つある、と著者は指摘します。その1は「生年」のこと、その2は「出奔」の問題、その3は「出奔中の在所」に関することです。この一見、脈絡のなさそうな3つは、実は底流で密接に関係しているというのです。

「良寛は(本陣宿を務める名主の)長男であるのに家も継がず、父にそむいて家を出ていってしまう。江戸時代であったらこれほどの親不孝はあるまい。しかも、母が死んでも父が死んでも家に戻らなかった。まさに、そこが問題なのである。かつて良寛は出奔したと史料にあるにもかかわらず、光照寺に入ったことにされた。出奔と入寺では意味がまったく異なる。家を出たのでは親不孝人間になるからである。しかし長男であるのに父を捨てて他国に奔ったとしても、それでただちに親不孝者と言えるだろうか、と私は思う。家を出ることに心の痛みを感じない人間などあろうはずはない。母の死にあたって、病の床に母を訪ねたく思わない息子などあろうはずはない。にもかかわらず、良寛は家にとどまることができず、母の病を見舞えなかったのである。痛みのむこうに良寛は何をみたのであろう。その傷みを解き明かさないと、本当の良寛はみえてない」。

「栄蔵(=良寛)は、父の(新興勢力の)敦賀屋長兵衛への仕打ちに対して全生命を燃え立たせ、怒りをもって父にあらがった。<少年父を捨てて他国に奔る>という詩からほとばしり出る熱気を私は感じないではいられない。栄蔵はいま自らの力をふりしぼって父に抗したが、やむことをしらない父の怒声のもと、追われるように自ら家を出たのである。安永4年7月17日深夜のことであった」。父・以南は癇癪持ちで、権威を笠に着て、些細な恨みを弱い立場の者に向かって発散するような陰険な性格の持ち主だったのです。

「良寛の母おのぶが新津から来た名跡新次郎と夫婦になったのは寛延3(1750)年のことである。そして、おのぶは宝暦元(1751)年の初夏4月、佐渡相川に里帰りしている。ところが宝暦4年の秋には与板の新木与五右衛門の二男重内(以南)との再婚が決まっている」。短期間のうちに、夫・新次郎との別離があり、年下の入り婿・重内との再婚が執り行われたのです。

著者は、公式には宝暦8年とされている良寛の誕生は、事実は宝暦4年の12月だった、そして、実の父は新次郎だったと考え、このことが、以南との関係に影を落としているというのです。

「安永4年7月17日の夜、栄蔵は(弟に家督を譲るという)書き置きを残して家を出た。行くあてなどどこにもなかった。しかし父の前から姿は隠さなければならなかった。安永4年から(師となる国仙和尚に出会う)安永8年までの間栄蔵はどこに住み、どんな生活をしていたのであろうか」。著者は、新津組大庄屋の当主に納まっている桂誉章(=新次郎)が、この時期の栄蔵の面倒を見たと考えているのです。

著者は、本書をこのように結んでいます。「私なりの理解によると、良寛の最初のつまずきは正義感から起きた。名主というおおやけの地位と権力をひけらかし、世の中のこともよく知らない(他家の)若者をなぶる父の仕打ちが許せなかった。考えてみればそれは良寛にとっては他人事のはずであった。それが他人事として許せなかったところに若き日の良寛の人生観がみえる。それが契機で良寛は父にそむき、弟に家督をゆずって『家』を捨てなければならなかった。後年越後に帰ってからも、良寛は『家』に立ち寄ることはなかった。弟の由之をはじめ妹たちのことをひとときも忘れることのなかった良寛を語る史料は多いが、『家』への未練を語るものはない、その理由は、良寛の青年時代の行動が語るところである。放浪の4年の間に、良寛は越後蒲原紫雲寺にあった曹洞宗観音院の僧、乞食宗竜を訪ね参禅した。この間だれが良寛に空堂を世話し、だれが良寛に宗竜の道徳高きことを語ったのか。そこに私は、新津の大庄屋で自分の屋敷内に円通閣を建ててふかく円通寺派曹洞宗に帰依した桂誉章の影をみる。そして桂誉章こそ橘屋の婿として良寛の母おのぶと最初に結婚し、忘れがたい2、3年の月日を出雲崎でおくった人物、名跡新次郎であった。その事実のなかに良寛が家を出る事情や北越後にはしった事情がかすかに語られていると私は思う。それ故に良寛はこのことを(最晩年に心を通わせ、良家の死を看取った、40歳年下の)貞心尼以外には語らなかったのではなかったか」。

著者は、良寛を生まれながらの超世俗人物ではなく、若い時は悩み多き普通の人間だったと捉えているが、その主張は強い説得力を有しています。