恐竜絶滅時代を生き延びる小哺乳類を思わせるエッセイスト・山田太一・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1647)】
今日は、石神仏に造詣の深い田村哲三氏から一対一で説明を受けるという、願ってもない機会に恵まれました。千葉・流山の名都借の広寿寺には、小さな「おばあさんの像」があります。子宝授かり祈願の石像だが、背面に男性自身が刻まれていることに田村氏が気づいたそうです。名都借城跡は緑に包まれています。名都借の香取神社の、元禄13年銘のある庚申塔には、農民たちの苗字が刻まれています。手児奈塔の前で聞いた、舒明天皇の時代に、4人の若者から求婚され、全員に応えることはできないと入水した絶世の美女・手児奈の話が胸に沁みました。前ヶ崎の宝蔵院の光明真言塔には、梵字が刻まれています。境内の四国88カ所巡拝塔の中に鯖大師が交じっています。前ヶ崎の香取神社も訪れました。因みに、本日の本数は13,785でした。
閑話休題、「世界をわからないものに育てること――文学・思想論集』(加藤典洋著、岩波書店)に収められている、百田尚樹の「永遠の0』や赤坂真理の『東京プリズン』に対する舌鋒鋭い批評も読み応えがあるが、私には、山田太一の『月日の残像』、『昭和を生きて来た』の書評が強く印象に残りました。
「私はこの本の書き手、山田太一のだいぶ遅くなってからの読者である。・・・一昨年(2014年)、小林秀雄賞を受賞したほぼ書き手の70代を覆う最近9年間に書き継がれた連載エッセイを集めた『月日の残像』を読んで、はじめて、自分のすぐ近くに、こういう下り坂の気分に合う、気むずかしい、しかも気むずかしさを目立たないように丁寧に身体に畳み込んだただならぬ書き手が佇んでいることを知った。その切れ味がなまなかでない。目にもとまらぬ早業、という言葉があるが、サイレンサーで一撃を受け、身体に風穴があく。それからしばらくすると、体内にひっそりと外からの光が降りてくる。――数歩歩いて、ややあって倒れる、そういう快い全身的な読後感が、読んでいるうちに身体を満たした」。
「この年になって新しく人を知ることのよろこび、というものがある、と私はいま感じている。そうした発見は劇も終幕近くになってはじめて登場する俳優のように、周囲になじまず、浮いており、場違いだが、新鮮な味わいがある。そこには、もっと早く知ってもよかったのに、なぜこの年になるまで自分はこの書き手を知らなかったのだろう、という驚きがある。そこに悔いがまじっていないはずはないだろうに、不思議なことに、いま出会ったよろこびがまさっている。・・・こちらとしては勝手に、ひそかに、そのエッセイにふれて旧友に会うような懐かしさを覚え、そういえば自分にはこの年になって、友人はもう一人、二人しか残っていないナ、と思ったりするのである」。
「こうした山田の独特なエッセイの味わいは、どこからくるのか。一つに、彼がテレビドラマの脚本家という新奇な職業の先駆者、第一人者でありながら、それにいつまでも慣れることができない、なじめない人だということがある。・・・もう一つは、世智と批評の混淆。世間知のトゲが、彼の文学的感性、批評的な感覚をいわば大根のように『すりおろす』。その一方で、硬質な批評性が彼の世間知の働きをある種の『ういういしい』ためらいのようなものに変える。・・・これらのエッセイから浮かび上がる山田は、総じて、恐竜の絶滅する時代を生き延びる小哺乳類を思わせる。・・・彼が。自分を戦争の記憶を失わない世代の人間と自己規定し、そのような作品を作ろうとし、またエッセイを書くにしても老年の余裕から遠く、つねにこれを一種真剣勝負の場所とみなしてやまないのは、恐竜の絶滅する時代を生き抜いてきた人間の空腹の苦しさとよるべなさを忘れない、真率な未来志向者だからなのだと、私は考えている」。
私が『月日の残像』(山田太一著、新潮文庫)を読んで感じたことを、これほど的確に表現するとは、さすが加藤だと、改めて脱帽した次第です。