榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

風刺絵の山藤章二が書き綴った4行のエッセイ集は、奥が深くて、味がある・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1674)】

【amazon 『山藤章二の四行大学』 カスタマーレビュー 2019年11月16日】 情熱的読書人間のないしょ話(1674)

栃木の真岡~益子を真岡鐵道のSLで移動しました。益子で益子焼の陶器を求め、足利のあしかがフラワーパークでイルミネーションを楽しみました。因みに、本日の歩数は10,585でした。

閑話休題、ずっと以前から山藤(やまふじ)章二の風刺絵が好きだったが、今回、エッセイ集『山藤章二の四行大学』(山藤章二著、朝日新書)を読んで、昭和の匂いがプンプンする山藤という人物も大好きになってしまいました。

驚くことに、本書に収録されている全てのエッセイが、4行で書かれているのです。

●知らないけど老子は好きだ、と決めてかかる。何しろ孔子や孟子がたくさんの道を説いていた時代の人である。同業の賢人たちの隙間を主張しなければ世に出られない。よほど天邪鬼的な発想をした人だ。

●漱石にしろ、老子にしろ、ベン・シャーンにしろ、私にとっては「危険人物」なのである。カリスマ性が強く憧憬と訣別には大変なエネルギーを要す。ただそういう過熱な時期はあった方がよい。「灼熱と冷水」が無いとナマクラな刀剣になる。

●しみじみとそういうことに気がつくのは、老境に入ってからである。若いうちは競争するのが当たり前という頭になっていた。若者じゃなくてバカ者だ。柿の実に学ぶがいい。ポトリと落ちる寸前が味わい深い。

●「一寸先は闇」だからこそ、高齢者は恐る恐る毎日足を伸ばしている。遠からずこの世から消えることが出来る、という楽しみが確実にあるからだ。憂世の煩わしさから解放され、無の空間に放り出されることを、私は楽しみととらえている。

●長く入院した。ヒザの手術と回復に時を要した。歩けない、時間はある、脳は元気だ。これだけ条件が揃えば何かを考えたくなる。病室の天井を見て考えた。考えることに集中できるいまは、最も贅沢なひとときだと思う。

●長い休みで私は何かを得た。人間、何かを失うと、何かを得るというのは本当だったのです。ヒザとか尿もれとか、肉体的には老いてゆくのですが、替わりに「視点の変化」という新しい能力を授かったのです。思索が少し深くなりました。

●老いることによって若いうちは気付かないものを授かるのです。思慮が深くなる。それを何と呼ぶかはその人の自由です。私は「哲学」と思っている。若いうちは目先のことばかりに興味を奪われたけど、老人にはそんな必要はない。

●日本の古典話芸は、英雄豪傑を美化して主人公にしてきた。それが講談や浪曲である。対して落語はダメ人間である。欲深、怠け者、愚者、親不孝、ケチ、嘘つき、粗忽、そうした、一流企業じゃ欲しがらない人材ばかりを集めた。業の肯定だ。

●老子にしても、漱石にしても、深く研究している人は居る。然し私は、自分流に拡大したり誇張したりして別の老子や漱石を創り出してしまう。それが自分が参加していて面白いのですよ。曲解こそが個性なのです。有難がってばかりじゃダメ。

●立川談志と気が合ったのは、この曲解して、毒を入れる、という思考構造が似ていたところも充分にあったのです。ただ性格の違いから、彼は毒を大匙いっぱい入れたのに、私はだいぶ気が小さいから耳かきいっぱいで済ませました。

●談志は死ぬまでしゃべった。しゃべっているうちは生きている。以下は例によって私の「脳内同時発生的早呑み込みヒラメキ症候群」ですが、人間、まず思うことですな、それを他人に伝える。だから、何も思わなくなったらオシマイ。

●「ヒラメキ」は、いつ降りて来るかわからない。誰にも降りて来るが、それを「単なる思いつきさ」とか「クダラナイ」と見送るのか、「神がささやいてくれた声だ」と受け取るかの違いだ。私は落語は哲学だと感じる人間だから、後者である。

●のちに、井上ひさし氏の『手鎖心中』を読んだら、そうした江戸のモノカキ連中の生態がよく描かれていた。大田南畝(蜀山人)、歌麿、十返舎一九、式亭三馬、曲亭馬琴、鶴屋南北と云った、「才能はあるけどウジウジした連中」が居た。