二・二六事件と秩父宮の関係、秩父宮を溺愛した母・貞明皇后と昭和天皇の確執・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1680)】
実りの季節ですね。
閑話休題、『「松本清張」で読む昭和史』(原武史著、NHK出版新書)には、著者の松本清張を敬愛する思いが籠もっているが、私が最も驚いたのは、「青年将校はなぜ暴走したか――『昭和史発掘』」と「見えざる宮中の闇――『神々の乱心』」の章です。
「(歩兵第三連隊長)安藤(輝三)が(二・二六事件の)襲撃参加を決意した背景として、私はこれらに加え、彼と、昭和天皇の1歳下の弟、秩父宮との関係に注目しています。二・二六事件を論じるにあたって、この秩父宮の存在を避けることはできません。事件当時、歩兵第三十一連隊第三大隊長として青森県の弘前に赴任していた秩父宮は、事件に関与した青年将校らと以前から親交がありました。北一輝とともに処刑されることになる西田税とは陸軍士官学校時代の同期で、西田から国家革新の緊要性を啓発されたといいますし、東京の歩兵第三連隊に所属していたときには、陸軍士官学校の4年後輩に当たる安藤と親しく交流していました。そうした立場から、秩父宮はクーデター計画に関与していたのではないか、青年将校は昭和維新の暁に秩父宮を皇位に就かせようとしていたのではないか、といった憶測を招くことになったからです」。二・二六事件の前年に、秩父宮と青年将校の近さを危惧した昭和天皇によって、秩父宮は東京から弘前に異動させられていたのです。
「安藤には、自分が決起に加わることは以心伝心で秩父宮に伝わるのではないか、秩父宮なら必ずわかってくれるだろう、といった思いがあったのではないかという気がするのです。彼を決起に加わらせたのは、この思いではなかったでしょうか。自分が動けば弘前の秩父宮に自分の思いは伝わるはずだ。それを考えずに安藤が参加を決めることはないと思うのです」。
「青年将校たちが決起したことを26日午後4時頃に知った秩父宮は、翌27日に上京します。なぜ上京したのか。これについては、秩父宮自身が日記などを残していないため、確定的なことはいまだにわかっていません。・・・(安藤にとっては)その行動によって秩父宮が自分の思いをわかってくれて、弘前から上京してくることの方が重要だった。そんなふうにも考えることもできるのではないでしょうか。・・・私は、安藤にとっての理想の天皇とは昭和天皇ではなく、秩父宮だったのではないかと思うのです」。
「二・二六事件自体が事前にそれほど周到に準備された計画ではなかった。直前まで相当バタバタしていたけれど、安藤が加わることによってにわかにクーデターとしての像が出てきた。そういうものだったのではないかと思います。そして、やはり鍵を握っていたのは秩父宮だったのではないか――。その思いはどうしても払拭できません」。
事件を知った時の秩父宮の心情を、清張はこのように推測しています。<これは筆者の推定だが、事件発生を知って弘前を発った秩父宮の胸中には、叛乱軍に安藤が歩三の部隊を率いて参加していると分って、事件の収拾に彼らの希望を達するよう宮中での努力を考えていたのではなかろうか。でなかったら、自分の上京が疑惑の眼で見られると分っていながら敢えてそれを決行するはずはない>。
「しかし宮中では、青年将校らの希望を達するどころか、天皇は叛乱軍を絶対に許さないという『強硬な意志』を示していました。・・・自分たちの行動に対し天皇が激怒した。これが、二・二六事件が挫折した最大の原因です」。
<だが、着京してみて以上の情勢を知った。もっともショックだったのは『朕自ら近衛師団を率いて討たん』という天皇の激怒であろう。秩父宮との面会に天皇はひどく不機嫌だったという説がある。ここから秩父宮の『変心』が起った>。
「つまり清張によれば、秩父宮は最初は青年将校らに有利になるよう動くつもりで上京したが、天皇の激怒を知り、それをあきらめた。秩父宮はこうして叛乱軍に対する好意的な立場をすみやかに放棄しました。そんな秩父宮を、清張は『まことに利口であった』と評しています」。
「襲撃前の計画段階での青年将校らと秩父宮の関係を示す決定的な史料が出てくることがあれば、謎は明らかになるでしょう。そう考えると、事件の中心メンバーがきわめて短い期間の裁判で全員死刑判決を受け、その多くがあっというまに処刑されたということの裏には、鎮圧側の何らかの意図があったと想定することもできそうです。青年将校らが生き残り、いろいろとしゃべってしまってはまずい。秩父宮との決定的な関係が明らかになってもまずい。そんな意図が、もしかするとあったのかもしれません」。
さらに、もっと驚くべきことが明かされています。「清張はこの(事件を知り上京した時に、秩父宮が天皇との面会の後に、母・貞明皇后と長時間面会したという)事実に大変注目しています。というのも、貞明皇后は秩父宮を溺愛していたという説があるからです」。
<二・二六事件発生後、弘前より急いで上京参内した秩父宮に対し天皇が大いに不機嫌だったこと、宮中からまっすぐ大宮御所に入った秩父宮が皇太后(=貞明皇后)のもとにかなり長い時間とどまっていたということ、また、天皇が『叛徒の撃滅』に異常なほど熱心だったことなども、一つの示唆となろう>。
「史料の制約でどうしてもわからないことは、わからないと清張は謙虚に認めていました。とはいえ、貞明皇后と昭和天皇の確執、あるいは秩父宮と昭和天皇ないし貞明皇后の関係、ここに早々と目をつけた清張は鋭いと思います。清張だからこそなし得た大きな『発掘』。これらを、20年以上の時を経てつなげてみせたのが、清張最後の(死により未完に終わった)小説『神々の乱心』なのです」。
さすがに清張は凄い、原武史も負けず劣らず凄い、というのが、私の率直な読後感です。