テーマ別、イラスト付きで哲学者たちの考え方が紹介されている、魅力的な哲学入門書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1708)】
サザンカとツバキの交雑種といわれるカンツバキが桃色、濃桃色の花を咲かせています。オトメツバキが淡桃色の花を付けています。ツバキの蕾が膨らんできました。因みに、本日の歩数は11,171でした。
閑話休題、『哲学の解剖図鑑――「知」の歴史がマルわかり』(小須田健著、エクスナレッジ)は、哲学の入門書として、3つの魅力を備えています。
第1は、類書のような、古代から現代へという編年体スタイルではなく、時間、自由、言葉、人生、幸福、死、神といったテーマごとに哲学者が配置されていること。
第2は、そのテーマに対する哲学者それぞれの考え方が簡潔に1ページで説明されていること。
第3は、その説明に添えられているイラストが、私たちの理解を大いに助けてくれること。
例えば、「キルケゴールの『快』」は、このように説明されています。「段階を踏んで生きる喜びを見いだす――キルケゴールは、世界に唯一の存在である自分を『実存』と呼んだ。・・・キルケゴールは、実存のたどる人生行路にいくつかの段階を設定した。最初が、自分にとって心地よい快楽を目標として追求する『審美』的生きかた(美的段階)だ。・・・つぎに、外面的な目標を追いかけて振りまわされるのではなく、安定した自己を保つ『倫理』的生きかた(倫理的段階)をめざすことが可能になる。なお、キルケゴールの考えでは、最終段階は宗教的段階となる」。
「ブッダの『死』」では、何度も生を繰り返す輪廻転生からの解脱がブッダの仏教の目標であったと解説されています。「執着を捨てれば苦しみから解放される――ブッダは、人間のあらゆる苦しみは、何かを望んだり恐れたりする私たちの心のありかた、すなわち執着心(渇愛)に由来すると考えた。誰かを好きになるから別れが辛くなり、死ぬのが怖いと思うから生に執着する。・・・執着心が捨てられれば、いまの暮らしを苦しいと思う気持ちも、来世への輪廻を厭う気持ち自体もなくなるだろうとブッダは説いた」。
「ソクラテスの『死』」のソクラテスは、死後のことはわからないのだから不安に思わなくていいと述べています。「もし死が唯物論者たちの言うように虚無に帰する全感覚の消失なら、それは夢ひとつ見ない熟睡した夜のような幸福なものだし、他方で冥府があるならば、そこでホメロスやヘシオドスと交わることもでき、神々とともに永遠の生を享受できるようになる。つまり死はちっとも不幸なことではない、ともソクラテスは述べていた」。
「ハイデガーの『死』」は、こうまとめられています。「一回きりの死と向きあって生きる――本来の自分に向きあおうとするためのきっかけとしてハイデガーは、死を重視した。自分の死は自分にのみ生じる出来事でありながら、みずから体験することはできない。その意味で自分の死とは『不可能性の可能性』と言える。そのような自分の死と向きあうことで、本来的な自分の姿も見えてくるのではないかとハイデガーは考えた」。
「フォイエルバッハの『神』」のイラストで描かれたフォイエルバッハは、「神が人間をつくったのではない、人間が神をつくったのだ」と語っています。「人間の願望の姿=神――フォイエルバッハによれば、人間はこうあるべきだ、もしくはこうであってほしいと願う姿を実体化して、それを私たちは神と呼んできたことになる。神が天地を創造し、人類を創造したわけではなく、人類こそが神をつくりだしてしまったとフォイエルバッハは考えた。まさに逆転の発想であった」。
「ニー茶の『神』」は、どう説明されているのでしょうか。「『神は人間の願望の産物』だというフォイエルバッハの洞察を、さらに徹底的に掘り下げたのが、『神は死んだ』という宣告で有名なニーチェだ。・・・なぜなら超越的な世界は、強者にルサンチマン(恨み)を抱いた弱者がプライドを保つために捏層した世界だと考えたから。そして、その捏造をごまかすために生みだされたのが神であり、プラトンの『イデア』だとニーチェは喝破した。・・・『神は死んだ』以上、神に依存して通用していたそれまでのあらゆる価値は無効になる。いっさいの価値の無根拠性を説くこの思想がニヒリズムだ。ニーチェは、自分たちの行動規範や価値判断の根拠として超越的な何かを求めようとする弱い人間たちに、そもそもそんなものははじめから存在しないのだと言いきる強さが必要だと説いたのだ」。
「メルロ・ポンティの『哲学』」のイラストのメルロ・ポンティは、「神は弱者の願望! ウソっぱち!」と叫んでいます。「メルロ・ポンティは晩年に『反哲学』を提唱した。・・・メルロ・ポンティの反哲学の企ては、『(神は死んだ!)哲学は終わった』というニーチェの宣告を正面から引き受けようとしたもの。残念ながら、その試みはメルロ・ポンティの急逝によって未完に終わった。ただ、彼の死の前後にフランスで勃興した構造主義やポスト構造主義といった現代思想の流れは、広い意味で『反哲学』の多様な実践であったと見ることができるだろう」。
若い時に本書に出会っていたら、遠回りしないですんだのにと悔やまれます。