科学は、かつて哲学に含まれていたんだって・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2929)】
一日中、雨――。パソコン上に突然、現れた「質問してみてください」という画面。話題になっている対話型AIの実力はどの程度かと、試しに、「榎戸誠はどういう人物か?」と打ち込んだところ、瞬時に、「榎戸誠さんは、年間720冊を読む77歳の書評ブロガーです。毎日、ブログ「榎戸誠の情熱的読書のすすめ」に書評と写真を掲載しています。様々なジャンルの本を読んで、自分の感想や考察を分かりやすく伝えています。情熱的読書人間として、多くの人に読書の楽しさや魅力を伝えています」という回答が示されたではありませんか。AIの実力、恐るべし。
閑話休題、『哲学大図鑑』(金山弥平・一ノ瀬正樹・伊勢田哲治監修、ニュートンプレス)のおかげで、哲学の歴史を俯瞰することができました。
「人類が2500年以上にわたってつくりあげてきた『知の結晶』――それが『哲学』です。私たちが『科学』とよんでいる学問は、かつて哲学に含まれていました。そして、17世紀から19世紀にかけて、哲学から分かれ、科学として発展しました。実をいうと、今では科学者とよばれるガリレオやニュートンも、みな哲学者だったのです。哲学者たちは、はるか古代ギリシャの時代から、さまざまな現象を見て、『なぜだろう?』と疑問に思い、その答えを考えつづけてきました」。この指摘で、目から鱗が落ちました。
「当時、さまざまな自然現象に対して、神話などの伝承にもとづいて超自然的な説明がなされていた。たとえば、雷が落ちるのは全能の神ゼウスの怒りやお告げ、人が眠るのは眠りの神ヒュプノスのしわざ・・・といったぐあいである。このような神話的な説明を『ミュートス』という。ところが、紀元前6世紀のはじめごろからミュートスに満足できない人たちがあらわれはじめた。彼らは、ミュートスを脱却して、自然現象をより理性的(合理的)に説明しようと試みた。このような理性的な説明を『ロゴス』という。自然現象を見て『なぜだろう?』と問い、ミュートスよりもロゴスを重視する人々。そんな人々があらわれたことで、知を愛する営み、哲学ははじまったのだ」。
「これまで哲学で考えられてきたテーマを便宜的に分けると次の4つに分けられる。本質を知るための『形而上学』、正しく知るための『認識論』、善悪や価値の判断をする『倫理学』、正しい推論をする『論理学』だ」。
「フランシス・ベーコン(1561~1626年)は、科学的な思考法である『帰納法』を確立した。帰納法とは実際の世界の観察から得られる情報によって、法則や原理を導きだす方法である」。
「演繹法とは、それ自体は証明する必要がない大前提とされる判断から、論理的な推論によって正しい真理を導きだす方法である。・・・(ルネ・)デカルト(1596~1659年)が学問的な方法として確立した演繹法は、その後、ドイツ観念論などの大陸合理論の論理的思考法の基礎となった」。
「フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は、哲学の古くからのテーマである善悪がどこから生まれたのかを考えた。彼は弱者の強者に対する妬みや怨念(ルサンチマン)こそが、善悪という価値の起源だと指摘している。こうした価値の起源を生み出しているのはキリスト教や理想主義だとして徹底的に批判した。善悪の価値判断は、社会に存在するさまざまな力関係の優劣によって生まれるもので、善悪の判断をくだす神は、そもそも必要ない(神は死んだ)とニーチェは語った。このように、これまで信じられてきた価値観は欺瞞にすぎないとする考えを『ニヒリズム』という。・・・生の本質をありのままに引き受けることで、人間はニヒリズムを乗り越えることができると語った」。実に分かり易い説明ではありませんか。
「精神分析学は、カール・グスタフ・ユング(1875~1961年)やアルフレッド・アドラー(1870~1937年)など、(ジークムント・)フロイト(1856~1939年)とともに学んだ心理学者・精神科医たちの間で、形を変えながら引き継がれていった。ユングとアドラーは、一時的にフロイトとともに人の無意識についての研究を行っていた。しかし、フロイトとの意見の対立から、それぞれ、独自の心理学を構築した。ユングは、無意識に、『個人的無意識』と、より深い領域にある人類に共通した『普遍的無意識(集合的無意識)』があることを想定した。一方、アドラーは、個人の心理が、社会環境に影響を受けることを強く意識した『個人心理学(アドラー心理学)』を創始した。行動の動機が過去の抑圧された記憶(トラウマ体験)にあると考えたフロイトに対して、アドラーは、自身の劣等感を乗り越えようとする気持ちこそ、人の行動の動機となると考えたのだ」。フロイト、ユング、アドラーは、元々は研究仲間だったのですね。