本作品のように、読み手を翻弄する小説が存在してもいいのではないか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1721)】
我が家に、メジロ、シジュウカラ、スズメ、ヒヨドリたちが入れ替わり立ち替わり、新年の挨拶(?)にやって来ます。因みに、本日の歩数は10,084でした。
閑話休題、『道化師の蝶』(円城塔著、講談社文庫)は、従来の小説の枠から大きく逸脱した作品だが、私には面白く読めました。
作品に負けず劣らず面白いのは、芥川賞選考委員たちの選評です。この作品の異端ぶりがよく分かるからです。Kは、「作品の中にはいって行くのが誠に難しい作品だった」、もう一人のKは、「日常の言葉では語り難いことを、どうにか日常の言葉で語ろうとしつづけているこの作者の作品は、読むことも大変に困難です」、Tは、「(受賞に一票を投じたのは)決して断じて、この作品を理解したからではない」、Mは、「私には読み取れない何かがある」と語り、Iに至っては、「こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなはだ疑わしい」と辛辣です。一方、好意的なのは、Yの、「この小説の向こうに、知的好奇心を刺激する興味深い世界が広がっているのが、はっきりと解る」、Oの、「描かれた着想の一つ一つはどれも、『銀線細工の技法』により織られた網で捕獲したもののように、魅惑的だった」、Sの、「(妄想小説と括れる本作は)そこまで『わからん』作品ではない。こういう『やり過ぎ』を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない。いや、この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている」と、明らかに少数派に止まっています。
こういう賛否両論が巻き起こったことを知り、著者の円城塔は、にんまりとほくそ笑んでいるのではないでしょうか。
希代の多言語作家、友幸友幸の小説『猫の下で読むに限る』を翻訳した「わたし」は、A・A・エイブラムス私設記念館に雇われて、「生年不明。生地不明。世界各地を転々とし、現在のところ生死不明」の友幸友幸の追跡調査を任務とする多くのエージェント(人員)の一人だが、「A・A・エイブラムス私設記念館は、ただ網を振り回し捕獲物を郵送せよとエージェントに求める他は一切の説明を行わず、業務は個人の意思に任せると扉を閉て切っている。・・・(エージェントの)募集要項は英国諜報機関よろしく堂々と公表されている。必須事項の欄を埋めて古式ゆかしく郵送すると、捕虫網が一つ送られてくる。わたしの場合は、千米ドルと、捕まえたものを送れというぶっきら棒な指令書も添えられてきた」。銀線細工の技法で織られた小さな銀色の捕虫網は、着想を捕まえるためのものなのです。私がここまで書いてきたことが本当に正しいのか、自信がなくなってしまいました(笑)。
何人もの「わたし」が登場し、時と場所と状況が瞬時に入れ替わり、物語の展開は行き当たりばったりで、いったいどこに辿り着くのやら――というはちゃめちゃぶりです。こういう読み手を翻弄する小説が存在してもいいのでは、と私は考えています。