榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

永青文庫の史料から明らかになった織田信長、明智光秀の実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1900)】

【amazon 『永青文庫の古文書』 カスタマーレビュー 2020年6月27日】 情熱的読書人間のないしょ話(1900)

カンナ、クチナシが咲いています。薄青色のアガパンサスの脇で咲いている白色のアガパンサスを見つけました。アジサイも頑張っています。ホウキギ(ホウキグサ、コキア)の茎葉は未だ小さく、緑色です。

閑話休題、『永青文庫の古文書――光秀 葡萄酒 熊本城』(公益財団法人永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター編、吉川弘文館)に収められている「新・明智光秀論」には、興味深いことが書かれています。

第1は、織田信長は、政治改革者ではなく、明らかに室町幕府政治の常識の枠内にいたと指摘していること。

第2は、信長にとっての「天下」は、日本全国ではなく、畿内5カ国を意味していたと指摘していること。

第3は、織田家臣団における明智光秀の政治的地位の高さは突出していたと指摘していること。「光秀は近江滋賀郡(坂本城)と丹波一国(亀山城・八上城・福知山城)を領有して京都の東西を押さえ、山城・大和両国、近江高島郡、丹後一国の織田武将・国人領主に対する軍事指揮権を保持したのだった。・・・都を囲い込むように展開する光秀の支配・軍事指揮領域の重要性は際立っている。・・・このように、織田権力の『天下』の中枢をおさえていたのは光秀であった。将軍(足利義昭)を失った織田権力が京都における『政権』たる実体を獲得しようとするときに、都の動脈である湖西地域に形成されたネットワークに基づく光秀の政治的行動力、権力編成上の手腕、軍事的能力は不可欠であった。天正9年2月に信長が京都で催した馬揃には、五畿内衆が総動員されたが、そのいっさいを取り仕切ったのは光秀であった。とりもなおさず、それは『天下』における光秀の政治的・軍事的地位の高さを象徴するものであった」。

第4は、直臣大名を動員する信長の権力と、自領内の給人と百姓を動員する直臣大名の権力との間に、構造上の埋めがたいズレが生じていたと指摘していること。「総体としての織田権力が戦争を継続すればするほど、『中世的な信長権力』と『近世的な織田大名権力』との矛盾は拡大していかざるをえない。そしてその矛盾は、五畿内『天下』を掌握した信長が『諸国』の大名らと直接相対する段階にいたった天正8年8月以降に、非和解的に高まることになったのだった」。

第5は、「本能寺の変」の歴史的意味について、「織田政権は、近世的分権の深化に対応できなくなった中世国家の最後のかたちであった。その迷走に終止符を打ち、豊臣政権の成立という近世封建国家の樹立過程における一大画期に道を開いたことこそが、『本能寺の変』の歴史的意味であり、光秀が日本歴史に刻み込んだ遺産であった」と指摘していること。