榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

オスカー・シンドラーは、なぜ、多くのユダヤ人を救ったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1950)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年8月16日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1950)

キスゲ(ユウスゲ)、オシロイバナが花を咲かせています。オシロイバナの花弁に見えるのは萼です。コジャノメ、コミスジ(写真7、8)、イチモンジチョウ、アカボシゴマダラをカメラに収めました。

閑話休題、『シンドラーに救われた少年』(レオン・レイソン著、古草秀子訳、河出書房新社)は、オスカー・シンドラーに救われたユダヤ人の一人、当時、15歳だった少年の凄絶な記録です。

「6月8日、またしてもドイツ兵が突然アパートへ押し入ってきた。・・・兵士たちは(2番目の兄)ツァリグの片腕を背中へねじりあげて、その場から連れ去った。愛する兄は、またたくまに目の前から消えた。・・・映画『シンドラーのリスト』では、一斉検挙で捕まった会計士のイツァーク・シュテルンを救おうとして、オスカー・シンドラーが駅へ駆けつける場面がある。シンドラーは汽車が出発する間際に駅へ着いて、シュテルンの名前を叫びながらさがしまわり、動きだそうとした汽車から彼を降ろす。映画では描かれていなかったけれど、のちにシンドラーは父にもうひとつのシーンを語った。シュテルンの姿を求めて人を満載した家畜用の貨車をつぎつぎにのぞいていたとき、シンドラーはツァリグを見つけて、自分の工場で働いているモシェの息子だと気づいた。そして、ここから出してやると伝えたのだが、そのとき兄は(恋人の)ミリアムと一緒だった。ミリアムの家族にはシンドラーの工場の従業員はいなかったので、彼女を救うすべはなかった。兄はシンドラーに、ミリアムを置いては行けないと言った。兄はそういう若者だった。たとえ自分の命がかかっていても、恋人を見捨てることなどできなかったのだ。その後、汽車はベウジェツという名前の収容所へ向かい、そこでは人々がガス室へ送られるという噂を聞いた」。この時、ベウジェツ収容所に運ばれた人々がひとりも生き残らなかったことを、数年後に著者は知ります。

「その朝、ゲットーでナチスによる『行動』と呼ばれるユダヤ人一斉検挙がはじまった。銃声、ドイツ兵の怒鳴り声、ドアを乱暴に開け閉めする音、軍靴で階段を上り下りする音が、そこらじゅうで響いていた。・・・(友人の)ヨセルとサムエルと私は隠れ場所へ這いのぼった。息をするのもやっとなくらい狭い隙間で、私たちはひたすらじっとしていた。・・・叫び声や銃声がしだいに大きくなり、ドイツ兵が近づいているのがわかった。隠れている人を嗅ぎだす役目のジャーマンシェパードが猛烈に吠えたてていた。犬のハンドラーの兵士は人々が慈悲を求めるのを無視して、無差別に殺した。私は両耳を手でふさいで、叫びやうめきや、『お願いだから!』『やめて!』と懇願する声から逃れようとした。・・・数時間後、叫び声がやんだ。・・・翌日も、親衛隊がゲットーのパトロールを続けていた。・・・私たちはほぼ丸2日ぶりに天井裏から転がるようにして下りた。床に立つと、両脚に激しい痛みが走った」。

「ある日、大きな岩を運んでいたところ、割れた墓石につまずいて脚を深く切ってしまった。手当てをするために診療所へ行かなくてはならなかった。あとから聞いた話だが、私が手当てを終えて診療所を出てすぐに、収容所長であるSSのアーモン・ゲート大尉がやってきて、なんの理由もなく、言ってみればほんの気まぐれで、その場にいた全員を射殺したそうだ。もしもう数分診療所にいたら、私も殺されていただろう。その話を聞いたとき、今後なにがあっても二度と診療所へは行くまいと心に決めた。診療所から遠ざかっていても、アーモン・ゲートの残虐行為から逃れられるわけではなかった。作業を割りあてる役目の男たちが、ゲートや彼の取り巻きたちが殺した人数を、まるでサッカーの試合の点数のようにささやきあっているのが耳に入ってきた。『今日の合計は?』。誰かが訊く。『ユダヤ人が12、ナチスはゼロ』。ナチスの死者数はいつもゼロだった。1943年の冬になると、ゲートの残虐さはいっそうひどくなった。私たちのグループは雪かきをさせられていた。寒さのなか、冬服を与えられていないので身は凍え、シャベルをしっかり持つことさえ困難だった。突然ゲートが現れて、私たちを恐ろしい革の鞭で25回ずつ打てと命じた。いったいどうしてそんな罰を受けるのか、私たちは誰ひとりとして理解できなかったが、理由は問題ではなかった。理由があろうとなかろうと、収容所長であるゲートの命令は絶対なのだ。彼は無力な者に苦痛を与えることを生きる糧にしているようだった。しばらくのあいだ彼は鞭打ちの光景を眺めていたが、そのうちに時間がかかりすぎると判断して、監視員に長い台を持ってこさせ、私たちを4人ずつその上に並ばせた。年齢も体の大きさも自分の倍ほどの3人の男と一緒に、私は罰を受けるために台に上がった。痛みと衝撃を増すために、鞭の先端には小さな金属球がついていた。しかも、私たちは鞭打ちの数を自分で数えるよう命じられた。激しい痛みのせいで数を間違えたりすれば、また一からやり直しになるのだ。台の上で前屈みになって、最初の一撃を待った。鞭が体に振り下ろされ、ナイフで切り裂かれたような痛みが走った。鞭の音とともに、私は『いち』と叫んだ。反射的に背面をかばおうと腕を後ろへまわしたので、つぎの一撃は両腕に受けた。『にぃ』。なんとか声を絞りだした。『さん、よん』と続いた。寒さでしびれた体を、まるで焼けた火搔き棒を押しつけられたような痛みがつらぬいた。『じゅうに、じゅうさん、じゅうし・・・』。この責め苦はいつまで続くのだろうか? なんとか持ちこたえなければ、ちゃんと数えなければ、さもないともう一度最初からやり直しだ。そうなったら、もう耐えられない。25回の鞭打ちが終わり、私は痛みのあまり気を失いそうになりながら、よろめく足取りで台から下りた。どうやって作業に戻ったのかははっきり覚えていない。脚や尻が激しく痛んだ。鞭打たれた痕は青黒く変色して何カ月も消えず、しばらくは座るたびに拷問のようだった」。

「収容所の周囲には鉄条網がはりめぐされていたけれど、外を見ることはできたので、将校の子供たちがナチスの青少年組織の制服を着て、アドルフ・ヒトラー総統を称える歌を口ずさみながら肩をそびやかして歩くのを見かけることがあった。彼らはいかにも元気そうで生き生きしていたが、わずか数メートルしか離れていない場所で、消耗しきった私は明日を生き延びるために苦闘していた。地獄にいる私と自由に生きている彼らとを隔てているのは、あまり厚みのない鉄条網のフェンスだけだったが、まるでたがいに別々の惑星にいるように思われた。その理不尽さは、どう考えても理解のしようがなかった」。

「シンドラーは途方もない危険を冒し、可能なかぎりの手段を尽くして、自分の工場で働くユダヤ人がアウシュヴィッツ絶滅収容所のガス室送りになるのを救ってくれた。そのおかげで、私たち(1200人)はホロコーストを生き延びたのだ。私たちの命を救うために、彼は自分の心と魂と、驚異的な処世術を駆使し、巨額の財産を投じた。彼は多くのユダヤ人労働者を救うために、なんの技術も持っていない私たちを軍需品生産に欠かせない熟練工だと偽ってナチスを欺いたのだ。じつのところ、私は木箱の台の上に立たないと、自分が担当していた機械のスイッチに手が届かなかった。その木箱は、私を役に立つ存在に見せ、生きるチャンスを与えてくれたのだ。私はホロコーストを奇跡的に生き延びた。不利な条件ばかりで、有利な条件などほとんどなかった。年端もいかぬ少年で、なんのツテもなく、特別な技術も持っていなかった。だが、なによりも重要なひとつの要素が味方をしてくれた。私の命には価値があると、オスカー・シンドラーが考えてくれたことだ。自分の身を危険にさらしてまでも、救う価値があると考えてくれたのだ。そして、今度は、私が彼のためにできることをする番だ。オスカー・シンドラーについて知っていることを語るのだ。私が彼の記憶のなかにずっとあったように、彼を読者のみなんさんの記憶の一部にしてほしい」。

「当時の残虐行為の全体の規模にくらべれば、(シンドラー)一個人のそうした行為は無意味だと思われるかもしれないが、絶対にそんなことはない。ユダヤ人を同じ人間として扱わず、責め苛んで絶滅させるという国家の方針に、シンドラーは反旗をひるがえして抵抗した。そうした行為は国家への反逆と見なされて強制収容所へ送られたり、処刑されたりする危険を冒すことを意味していた。ユダヤ人を罵倒せずに名前で呼んだだけでも罪になったのだ。シンドラーは人間としての敬意を持って私たちに接することによって、ユダヤ人を底辺の存在とする序列を築いたナチスの人種差別イデオロギーに抵抗していた」。

「幸いにも当時は知らなかったが、1945年4月にSSは工場にいるすべてのユダヤ人を殺せと命じられた。その命令が実行される前に、シンドラーが彼らを放逐して阻止したのだ。当時、急速に接近するソ連軍に捕らえられるのを恐れて、ドイツの将校や兵士たちが脱走していた。その混乱に乗じて、シンドラーは私たちのためにまたしても危険を冒した。遺棄されたナチスの倉庫へ行って、ネイビーブルーの布とウォトカを大量に持ちかえったのだ。迫ってくるソ連軍に捕まれば自分もどうなるかわからないと、シンドラーは知っていた。彼はまず監視兵たちに向かって、ただちに自発的に去れば生き残れる可能性が高いと伝えた。それ以上うながす必要はなかった。兵士たちはなにも反論せずに逃げだしたが、シンドラーは残った。工場を離れる前に、彼はユダヤ人たちを集めて最後の別れの挨拶をしたのだ、あまりにも長い年月を恐怖のなかで過ごしたため、私は彼の言葉が事実とはなかなか信じられなかった。『きみたちは自由だ』。シンドラーが言った。自由! 誰も一言も発しなかった。・・・話を終えると、彼は私たち一人ひとりに、布1反とウォトカ1瓶をくれた。食料や宿や衣服と交換できるからだ。・・・真夜中過ぎに、オスカー・シンドラーは車で去っていった。彼はアメリカ軍の陣地をめざし、無事にたどり着いた。もしソ連軍に捕まっていたら、たんなるナチスの一員として殺されていただろう」。

本書を読み終えて、シンドラーに対する尊敬の念が、ますます大きく膨らみました。