榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

空手空白地帯のアラブ諸国に空手の種を蒔いた日本人空手家の光と闇・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1968)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月3日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1968)

ショウジョウトンボの未成熟の雌(昆虫・野鳥に造詣の深い斉藤裕さんの教示による。写真1、2)と初めて出会いました。ウスバキトンボ(写真3~8)との遭遇も初めてのことです。捕まえて撮影後、外に放してやりました。ノシメトンボの雄(写真9)をカメラに収めました。撮影助手(女房)がアゲハチョウの蛹(写真10)を見つけました。ツクツクボウシの抜け殻が整列しています。キウイフルーツの実が鈴生りです。

閑話休題、『ロレンスになれなかった男――空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(小倉孝保著、KADOKAWA)では、空手空白地帯であったアラブ諸国に空手を普及させた空手指導員・岡本秀樹の生涯が描かれています。

「岡本は1970年にアラブに渡り、シリア、レバノン、エジプトを拠点に約40年にわたって空手を指導してきた。日本空手協会(本部・東京)の中東・アフリカ担当責任者として、空手の空白地帯だったこの地域に空手を普及させている。前立腺がんからの転移で全身をがんに冒された岡本は08年夏、日本に帰国し闘病の末、09年4月30日、67年の生涯を閉じた。現在、中東・アフリカ地域の空手人口は2百万人を超えている。その源流は岡本にある。ゼロから空手を育てた彼は、『アラブ空手の父』と呼ばれてきた」。

「私は(毎日)新聞社のカイロ特派員だった02年、岡本に出会って以来、彼から生きたアラブ史を聞いてきた。・・・エジプト大統領のサダトが77年にエルサレムを電撃訪問することを、岡本は事前に知っていた。また、81年にサダトがイスラム原理主義者に暗殺された際も、岡本は公式発表前に大統領の死亡情報を入手している。おそらく、サダトが亡くなったことを最初に知った日本人は岡本だろう。なぜ、特別な出自を持たない彼に、そうしたことが可能だったのか。岡本は、シリアやエジプトで秘密警察や治安部隊のメンバーを相手に空手を指導し、その教え子たちを通じて治安機関に特殊なコネクションを築き上げていた。サダトの護衛も彼の教え子の一人だった。それを基に彼は各地で政権幹部に近づき、貴重な一次情報を入手しうる立場にいたのである」。

「岡本は特別な立場を利用し輸入が禁じられている外国製品を闇ルートで販売し、一時はカジノも経営している。事業に失敗、不渡りを出し国外退去命令を受ける寸前まで追い込まれたこともある。闇と光が交差するところに生きた岡本は、(日本の)外交官が付き合うには危険過ぎる男だったともいえるだろう」。

「一方、岡本はアラブ人からは慕われ、教え子からは信頼されていた。日本経済新聞は82年1月、『日本とは何か』の中で岡本を取り上げている。『日本人がカイロの街を歩いていると、子供たちが前に飛び出してきて空手の格好をしながら、<オカモト><オカモト>と叫ぶのによく出くわす』。『(岡本が)街を歩けば<モダレブ・カラテ>(空手先生)と握手を求める男たちがひきもきらない。軍や警察で働いている彼の弟子たちだ』。『モダレブ』とはスポーツのコーチなどを意味するアラビア語である。・・・空手を学ぶ者にとって当時の岡本は一種のアイドル的存在だった。『彼ほどアラブを愛し、アラブに愛された人はいなかった。私は若い頃、歩き方から話し方まで、彼をまねようとしたほどです』(エジプト外務省の近隣諸国問題担当大使アムル・アッバス)」。

エジプトの大統領アンワル・サダトの長男、ガマル・サダト、サダトの後を継いだ大統領ムハンマド・ホスニー・ムバラク政権の首相カマル・ハッサン・アリの息子、イラクの大統領サダム・フセインの長男、ウダイ・フセインなども、岡本の空手の生徒でした。

「岡本はすべてを失いながらも、この地域に2百万人を超える空手家を育てた。砂漠にまいた空手の種は大輪となって咲いている。(岡本が憧れたアラビアの)ロレンスになれなかった男は、(遺骨が撒かれ)ナイルの水となった」と、本書は結ばれています。

本書のおかげで、功罪を含め、このように奔放な人生を送った日本人がいたことを知ることができました。