榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

死ぬほどの恋、他人に見られる効果、死んだら終わり――を考える・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1969)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月4日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1969)

実ったイネに数え切れないほどのハネナガイナゴたちが群がっています。運よく、交尾を目撃することができました。背中に乗っている小さなほうが雄です。熱中している彼らには迷惑だったでしょうが、捕まえて、引っくり返して見たところ、雄の交尾器が雌の交尾器にしっかりと挿入されているではありませんか。撮影後、放してやりましたが、2匹はくっついたままでした。ハトムギが実を付けています。アキノワスレグサが、ノカンゾウによく似た花を咲かせています。アキノワスレグサは九州南部および南西諸島に自生しているそうです。

閑話休題、60代女性のエッセイ集『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(三砂ちづる著、ミシマ社)は、著者の豊かな経験という裏付けがあるので、70代男性にも勉強になります。

「なかなかできないからこそ憧れる、『死ぬほどの恋』なのであるが、もちろん、一人ではできない。一人だけで、まったくの片思いで、相手からはなんの反応もないことは、たまらなく切なくはなっても、『死ぬほどの恋』にはならない。『死ぬほどの恋』というのは、それなりの求め合う関係性が、濃淡に差はあるかもしれないけれど、確実にあり、それがどういう形で成就するのか、先が見えず、あるいは、周りとの関係性において、むやみに傷ついてしまうようなことになるから『死ぬほどの恋』になるのだ。楽しいばかりではなく、けっこうつらいものが『死ぬほどの恋』なのであるが、多くの人が年齢を重ねてしまったときに後悔するほど憧れるのは、自分という存在が、理不尽なほどに相手に求められ、自分もまた相手を求める、という果てにこそ、『死ぬほどの恋』があるからなのだ、と思う」。

「わたしたちは、自分が相手を求め、そして、誰かに求められること、全身全霊で求められることにこそ、憧れるのだ。求められる経験は、その人を強くする。何よりも、求められたことが自信につながるから。それから後どのようなことになるにしても『死ぬほどの恋』は死ぬほどの思いを抱いた人に求められた時点で、少なくとも、承認欲求は十二分に満たされた状態になるから。それほどに、人を求め、求められることを求めるわたしたちであるが、なかなかそんなふうに、お互いに求め合えない。『死ぬほどの恋』は、だから、憧れに終わることが多い、ということになる」。

著者の分析はさすがだが、恋愛至上主義者の私は、憧れの人と現在の自分との落差の大きさに愕然とし、憧れの人のレヴェルに少しでも近づきたいと猛然と努力することが恋愛の本質だと考えています。

「2016年に亡くなったフランス文学者、山田登世子さんが何度も書いておられるように、パリは、みて、みられる劇場都市である。カフェは道に張り出し、そこにいる人は飲み物を片手に会話を楽しみながら、道ゆく人を見ているし、また、道ゆく人に見られてもいる。年齢にかかわらず、男も女も実に魅力的であり、魅力的であろうとしている。いわゆる芸能人が年齢をかさねてもきれいな人が多いのは、人に見られる職業だからだ、というけれど、この街では、街を歩いているだけで、カフェで冷たい飲み物を飲んでいるだけで、常に人の視線を意識しているから、みんなが芸能人なみに、人に見られることが前提の自分、をつくりあげているのである。こういうところにいると、年齢にかかわらず『きれいにしていなくっちゃ遺伝子』がオンになってゆくのを感じる。自分を見られるに値する存在にしていたい、という欲望が出てくる」。

「年齢がいっているとか、あまり美人でない、とか、太っているとか、やせているとか、そういうことと関係のない、見て、見られる、ことによって自分でつくりあげていく、自信、というものがあるんだな、と思わせられる。それは、魅力的であろうとする不断の努力であり、パリ在住の方に聞くと『それはそれで、疲れる』とおっしゃるのだが、そういう努力は、何より、女性自身の自己肯定感を高めていくこと、つまりは、今の自分を認めて、その自分をより良い方向に、自分がより快適である方向に持っていこう、とすることにつながるのではないのか。そして、そういう自信こそを、本当の強さ、というのではないか」。

男のせいか、私は自分の見た目が他人にどう映っているかは全く気にならないが、毎日更新しているブログが、読み手にどう受け取られているかには大いに関心があります。

「夫は唯物論者だった。『唯物論者だった』、と過去形にしているのは、昔は唯物論者だったのが、最近、神様の存在を信じるようになりました、とかいうわけじゃなくて、夫は、2015年に亡くなってしまったから、過去形なのだ。『神様』や「仏様」を一切信じていない人だった。・・・周りの友人たちは、いわゆるエリートコースを歩んでいった方も少なくなかったが、本人としては、学生時代に考えたことを不十分ながら、なんとか生涯考えたい、と努力していた。別に学者や研究者になった人ではなかったが、それなりに、若い頃に立てた志を大切にして、本を読み続けて、人と会い続けて、不器用に生き続けて、学生時代に考えたことを自分で納得したいと考えていた」。

「『死んだら、それで、はい、おしまいよ、だよ』と、常々言っていた。宗教のみならず、いわゆるスピリチュアル系の話も、一切遠ざけた。祈祷も占いも健康食品も、彼にとっては宗教の一種であり、宗教は麻薬であり、人間を考えることから遠ざける、冷静な判断をすることを邪魔するもの、と思っていたと思う。だから、病んでも、一切そういうことに救いを求めなかった。『死んだら終わりだよ』といつも言い続けていたのだ。最後までその姿勢が変わらず、当然、宗教的な救いを求めたり、妙な健康療法を試したい、などと言うこともなかった。死んだらおしまい、を繰り返していた」。

常々、女房に、「死んだら、その瞬間に全てが終わる。死んだら意識がなくなるのだから何も感じない」と言っている私なので、著者の夫と一度、ゆっくり話をしたかったなあ。