著名な人物と比較分析することで、荻生徂徠の精髄が見えてくる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1970)】
ジャコウアゲハの雄(写真1)を捕まえ、撮影後、放してやりました。アカボシゴマダラ(写真2)、ツマグロヒョウモンの雌(写真3、4)、イチモンジチョウ(写真5、6)、コミスジ(写真7、8)をカメラに収めました。ツルナ(写真9、10)、アメリカフヨウが花を咲かせています。
閑話休題、『反「近代」の思想――荻生徂徠と現代』(舩橋晴雄著、中央公論新社)は、テーマ毎に荻生徂徠と著名な人物を比較分析しているところに特色があります。
とりわけ興味深いのは、「汚名――徂徠とニッコロ」、「天の寵霊――徂徠と吉保」、「先王の道――徂徠と荀子」です。
「江戸の大儒荻生徂徠も、ニッコロ(・マキアヴェッリ)同様後世必ずしもその真価が理解されず、あるいは誤解されて、『汚名』を蒙ることとなった例として挙げることができるだろう。まずニッコロ同様、徂徠も人間存在の実相を抉り出し、その実相を前提として、政治即ち人間の統禦をいつも考えていたという共通項がある。・・・陰謀は決して悪いことではない。むしろより上位の善を達成するための手段たりうるからである。同様により高い目標、例えば『民を安んずる』ためであったら、為政者は道理に外れ、人に笑われることであっても、進んでそのような道を歩まなくてはならない。・・・後の儒学者が批判するようにそれは『功利』かもしれない。しかしそのような汚名を着せられようと、人のため民のために粉骨砕身する人間の統禦者のどこが怪しからんというのかと説いているのだ」。
「徂徠は、元禄9年から宝永6年に至る13年間、柳沢(吉保)家に儒臣として仕えることとなる。・・・(徳川)綱吉と吉保の関係も『天の寵霊』による所が大きかったが、それほどまでの君寵を得たのは、吉保にそれだけの魅力があったからである。吉保がどのような人物であったかを、一番良く見ていたのが主君の綱吉であっただろう。・・・ここで綱吉が『まめやかに心をいれて』というのが吉保の本質であり、破格の出世の理由でもある。マメで気配りの人、誠心誠意、二心ない人物であったようだ。・・・そして、綱吉死後、直ちに退隠して六義園に引き籠るのだが、これはこれで見事な処世である。・・・偶然といえば偶然だが、徂徠がこの『マメで気配り』の吉保の知遇を得、五百石の高禄を以て仕えることがなかったら、後に徂徠が大儒となり、徂徠学を完成させ後世に大きな影響を与えることもなかったと思われる。・・・徂徠は『旦(あした)より深夜に及ぶまで、手に巻を釈(お)くの時無し』といわれたほどの『本の虫』で、書物以外にさしたる趣味もなく、ましては『声色』など論外という堅物だったから、五百石の相当部分は本代に消えたと思われる。蔵いっぱいの書物を百六十両で買った時は、先祖伝来の武具ばかりを残して家中の什器すべてを売り払ってまで求めたこともあったという。・・・綱吉と吉保の縁、吉保と徂徠の縁。偶然とそれを生かした吉保の魅力と徂徠の実力。この『縁』と『恩』は、人間社会の不思議な作用ではないかと思う。非合理といえば非合理である。『合理的』な『近代』においては、一顧だにされないのかもしれない。しかし、これらを大切にしない人には、『天の寵霊』が与えられることもないに違いない」。
「(徂徠の政治哲学が)何かを一言でいえば、『先王の道』である。・・・ここに徂徠の儒教に対する考え方が集約されている。徂徠によれば、孔子が説いたのはいわゆる倫理道徳ではなく、天下を安んずる方法論である。魯の国の大夫であった孔子は、魯の国の始祖周公の作り上げた、かつての周の理想政治を実現しようとし、そのために弟子を教育しその才能を育成した。しかし天は孔子にそれが可能となる地位を与えなかった。そこで孔子は、古代の聖王達が制作した『六経』を蒐集編纂して後世に伝えようとしたのである。従って、『六経』は『先王の道』そのものなのだというのである。・・・徂徠はあくまで歴史的に物事を捉えていくのである。・・・(このような)『先王の道』の考え方は、すべてが徂徠の独創という訳ではない。その多くを実は先秦の思想家荀子に負っている。・・・『礼』と『楽』の内容と機能、そして両者相俟って人間集団の統禦に有効であるという点については、表現振りこそ違うものの、徂徠と荀子は同じことをいっている」。