榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

平安貴族の出世がこんなに不公平だったとは、平安貴族の勤務がこんなに多忙だったとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1982)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月17日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1982)

クサギ(写真1)、ノブドウ(写真2)、コムラサキ(写真3、4)、シロミノコムラサキ(写真5、6)が実を付けています。クリの実が落ちています。

閑話休題、『平安貴族』(橋本義彦著、平凡社ライブラリー)から、平安貴族の実態について、多くのことを教えられました。

平安時代の官僚貴族の最上層部には、超スピードで出世できる仕組みができていたこと――。「律令官人社会は、正一位から少初位下まで30階に及ぶ位階によって秩序づけられているが、そのうち三位以上は『貴』、四、五位は『通貴』と言われ、俸禄や給与の面でとくに厚い待遇を受け、法律の適用でも特別の考慮が払われた。・・・(しかも)蔭位(おんい)の制度によって、三位以上=『貴』の子と孫、及び四、五位=『通貴』の子は、父祖と同じ地位に上りやすいように仕組まれていた。それを規定した選叙令の条文によると、一位の嫡子が士官する際は、最初から従五位下、嫡孫の場合は正六位上に叙され、以下、二位・三位の子と孫は六位から七位の位階を、四位・五位の子も七位から八位の位階を授けられた。これに対して、蔭位の恩恵に浴さない者は、大学の課程を終え、官吏登用試験に合格して士官した場合、最高の成績でも正八位上に叙されるにすぎなかった。しかも、初叙の年限も25歳以上とされ、蔭子孫のそれが21歳以上であるのに対して大きく格差がつけられていた。五位以上、つまり貴と通貴の子、あるいは孫が、官人社会に出身する際、いかに手厚い待遇を受けたかがよくわかる。そして、この再生産の仕組みに支えられて、貴・通貴から貴族へと階級化の道を歩んだのである」。

平安時代には、中・下流貴族の受領(ずりょう)が貴族社会の重要な脇役となっていったこと――。因みに、『源氏物語』の作者・紫式部は受領の娘です。「平安中・末期の貴族社会は、公卿と殿上人を中心として構成されたのであるが、この殿上人の一角に入り込み、特異な役割を果たしたのが受領である。・・・(受領は赴任先の国の)財物の収奪に狂奔するだけであった。この実入りのよい受領の地位は、中央の要職からしめ出された中・下流貴族の争奪の的となった。・・・地方では中央の貴人と仰がれた彼らも、上流貴族の前では『あけくれひざまづきありく』(『かげろふ日記』)ものと見くだされ、その地位を保つためには、権門勢家に明け暮れ奉仕せねばならなかった。しかしその反面では、院宮権門も律令的俸禄制度のくずれてゆくなかで、競って受領の財力を取り込むことに努めた。受領を院司・宮司あるいは家司に任命して、家政の一端をになわせたのも、その有効な手段の一つである。そしてさらに、受領に昇殿を許し、あるいは内蔵頭に任じて、宮廷財務の重要な部分を請け負わせることすら慣例化したのである。こうして受領の姿も、次第に宮廷社会においてクロースアップされるようになった。受領は、『源氏物語』に登場する空蝉の夫伊予介、その子紀伊守、あるいは明石の上の父、前播磨守なる明石入道などのように、貴族社会の重要なわき役となったのである」。

平安貴族の勤務の実態は、意外に多忙だったこと――。「宮廷貴族の上層を占める公卿は、朝廷の儀式や行事を主宰し、あるいはそれに参列するのを重要な役目としていた。・・・公卿はかなり多忙な毎日を送ったわけである。・・・実際、平安中・末期の日記を見ると、儀式や公事が子の刻に及ぶのは普通で、夜明け頃ようやく宮中から退出したという記事も珍しくない。・・・もちろん貴族たちは、このような堅苦しい儀式や政務にばかり追われていたわけではない。天皇や皇后を中心として、詩や和歌や管絃の会もしばしば催されたし、摂関の私第や上皇の御所でも色々な行事が行なわれ、華やかな王朝絵巻を繰り広げたことは、物語などの文学作品によってよく知られている。しかしその背景には、物語などには採り上げられない、こうした貴族の日常が厳存していたことを忘れてはならないのである」。

薬子の変が、結果的に、摂関政治隆盛の道を開いたこと――。810年の薬子の乱とは、平城太上天皇と弟の嵯峨天皇の勢力争いの過程で生じた変乱であるが、嵯峨天皇側は、平城太上天皇に寵愛された藤原薬子とその兄・藤原仲成に全ての罪をなすり付けて、平成太上天皇の権威を失墜させることに成功した事件です。「この変乱があっけない幕切れで終ったのとは対照的に、これを転機として、歴史の流れが大きく変わっていったことは見逃せない。その第一は、平安京が『万代宮』の帝都の地位を確立したことである。・・・第二は、太上天皇の政治的地位に一定のけじめをつけたことである。・・・第三は、この変乱を機として、藤原北家が急速に勢力を伸長し、政界制覇の道を直進したことである。・・・(藤原四家のうちの)式家は、この変乱で仲成が叛臣として処刑され、大きく後退を余儀なくされた。・・・これに対し北家では、右大臣内麻呂が廟堂の首班を占めてこの変乱を乗り越え、ことにその嫡子冬嗣は嵯峨天皇の腹心として活躍し、これを契機にして急速に昇進をとげた。・・・こうして三代にわたって朝廷の首班の座は北家によって占められたが、さらに冬嗣の男良房も、早く嵯峨上皇にその才幹を見こまれて皇女潔姫をたまわり、長じては父祖の遺産を継承発展させて、北家の覇権を政界に確立し、藤原貴族政権の成立に大きく踏み出したのである」。因みに、藤原道長はまさに北家の後裔です。

読み応えのある一冊です。