榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

三国志の世界を呉の孫堅、孫策、孫権のサイドから眺めたら、こうなった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2051)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年11月25日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2051)

さまざまな色合いのハボタンを見かけました。図書館に新型コロナウイルス対策用の書籍の除菌ボックスが設置されています。

閑話休題、三国志時代に大いなる関心を抱いているが、蜀の劉備や諸葛亮の肩を持ち過ぎる『三国志演義』は私の好みに合いません。

呉書 三国志』(斉藤洋著、講談社)は、呉の孫堅(父)、孫策(長男)、孫権(次男)の3代の活躍に照明を当てているところに特徴があります。

「初平4(193)年正月、こうして長沙太守烏程侯孫堅は35歳で世を去り、17歳の孫策は、やむなく軍をひき、寒風吹きすさぶ中を長沙に帰っていったのである」。

「その夜おそく、江東の小覇王。呉侯討逆将軍孫策は25歳でこの世を去った。時に建安5年、弟の孫権はまだ18歳であった」。

「(孫権の陣営では)毎日、軍議が開かれ、そのつど、家臣たちの意見は2つにわれた。そして、そんなおり、江夏から魯粛が一人の男をつれて帰ってきた。その男は、孫権と同じ年ほどの若い男で、諸葛瑾の弟だという。目がいくぶんつりあがり、鼻が大きい。その人こそ、劉備の軍師、諸葛亮だったのである。軍備によばれた諸葛亮は、呉が劉備と組めば、どれほど有利かを、孫権にむかってのべたてた。孫権は、ふむふむとうなずきながら、感心したような顔をしてみせたが、内心では、その男があまり好きになれなかった。いかに自分の主君の劉備に人徳があり,曹操がどれほど悪人であるか、諸葛亮は、あれこれ例をあげて説明する。そして、『いま、孫権様が、わが主君と同盟し、曹操にむかって立ちむかえば、曹操など、ひとたまりもありません』とまでいいきった。孫権は思った。世の中に、完全な善人がいないように、完全な悪人というのもいない。劉備がまっ白で、曹操がまっ黒ということはない。曹操にも徳があるだろう。そうでなければ、あれほどすぐれた家臣たちが曹操についていくわけがないではないか。たしかに、劉備に人徳があるというのは、よく聞く話だ。しかし、この戦乱の世に、人徳だけではやっていけいない。その証拠に、劉備は、戦うたびに負けるではないか。いま、劉備と組んで曹操に立ちむかえば、曹操など、ひとたまりもないなどと、よくいえたものだ。聞いてあきれる。勝つ見こみは多くて三割だ」。そのとおりだ、孫権の言うとおりだ、と思わず膝を打ってしまいました。

「(曹操対劉備・孫権連合軍の)赤壁の戦いののち、中国は事実上三国鼎立の時代に入る。そして、これより12年後に、曹操の子、曹丕が献帝より帝位をうばって、魏王朝を建て、ここに後漢の王朝が終わる。その翌年、劉備は蜀王朝を建てた。孫権はいちばんおくれ、さらに8年後、もはや漢王朝復興の見こみがなくなってから、魏と蜀に対抗するために、呉王朝をうちたて、呉の大帝となったのである。そして、中国は名実ともに三国期に入る。・・・父や兄が短命だったのにくらべ、孫権は70まで生きた。そして、魏、呉、蜀の三国のうち、呉はいちばん長くつづき、晋(西晋)が中国を統一する太康元(280)年に滅亡した。このとき、呉の帝は、孫権の孫、孫晧であった」。

孫堅、孫策、孫権の3代に亘り、主君と優秀かつ忠実な家臣たちが結束して勢力拡大を目指す過程は、それこそ山あり谷ありだが、私たちに極上の爽快感を与えてくれます。