榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ユダヤ教、キリスト教、イスラームは同じ神を信じているのに、ひとつになれないのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2302)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年8月1日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2302)

フヨウ(写真1~4)、コスモス(写真5)、ホスタ(ギボウシ)‘ブンチョウコウ’(写真6)が咲いています。ニイニイゼミの抜け殻(写真7~9)を見つけました。今季初めて、ヒグラシの鳴き声を耳にしました。

閑話休題、『よくわかる一神教――ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から世界史をみる』(佐藤賢一著、集英社)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームについて著者が勉強したことを記した学習ノートのような著作です。おかげで、私も、これまで抱いてきた疑問に対する解答を得ることができました。

●3宗教は、なぜひとつになれないのか――
「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じエルサレムを聖地とし、呼び名こそ異なるものの、同じ神を信じています。それなのに、どうしてひとつの宗教でなく、別々の3つの宗教になったのか。・・・ひとつになれない理由を考えてみるに、まず民族宗教か、世界宗教かの違いがあります。ユダヤ教は民族宗教で、キリスト教とイスラム教は民族の枠を超えた世界宗教です。ユダヤ人の宗教であるユダヤ教は、民族を問わないキリスト教やイスラム教を認めることができないのです。・・・キリスト教が人間中心主義だとすると、イスラム教とユダヤ教は神中心主義ということになります。聖典ということでいえば、イスラム教の『クルアーン』は全てアラビア語で、他の言語の『クルアーン』というものは認められません。ユダヤ教の聖典も、ヘブライ語で語り継がれています。神の言葉は絶対に変えてはいけない、変わってしまう恐れがあるから翻訳も許されない、神の言葉は意味や是非を考えることすら許されない、もしやれば瀆神的な行為であるというように、ユダヤ教もイスラム教も原理主義的な傾向が強いわけです。この点でもキリスト教は一線を画します。その『聖書』は最初はギリシャ語で、その後ラテン語に訳され、ルター以降は、各国語に積極的に翻訳されていきます。やはり人間の都合で、読みやすいように変えられていくのです。・・・3宗教とも砂漠地帯に発生し、最初はセム語族の人々に担われました。それは農耕社会というより商業社会です。ユダヤ人はディアスポラの民になりますが、砂漠を離れ、散り散りに暮らすようになっても、いや、散り散りになったからこそ、商業的性格を持ち続けます。・・・イスラム教は11世紀から広い範囲に拡大していきますが、やはり商業的性格は失いません。・・・キリスト教はといえば、発祥の砂漠地帯から、いち早く西方に伝播していきました。そこは商業社会というより、むしろ農耕社会です。農民であるキリスト教徒は、ユダヤ教徒、イスラム教徒と生き方からして違うことになります」。

●なぜユダヤ人は金持ちなのか――
「(ユダヤ人には)様々な制約があり、就ける職業も限られている。となれば、もともと商業民族で、富裕な者は多かったので、金貸し、金融業はユダヤ人の数少ない選択肢に挙がらざるをえなかったのです。キリスト教の世界では、時間の経過によって生み出される利子は、神の所有物である時間を人間が奪い取ることだとして禁止されていました。・・・<外国人には利息を取って貸してよいが、同胞からは利息を取ってはならない>。この『同胞』は、キリスト教徒にとってはキリスト教徒です。キリスト教徒同士で金を貸し、また利息を取ることは許されない。『旧約聖書』の文言ですから、もちろんユダヤ教徒も従わなければなりません。ユダヤ人同士で金の貸し借りをしても、やはり利子を取ることは許されない。しかし、キリスト教徒は同胞ではないので、キリスト教徒に金を貸し、利子を取ることは、教義的に何の問題もないのです。むしろ自分たちの敵から取るのだという感覚が底にはあって、積極的にキリスト教徒にお金を貸すことになる。借りる側のキリスト教徒にしてみれば、『聖書』で禁止されているのに利子を取られるのは腹が立つ。ユダヤ人はこんな罪深いことを、どうして平気でできるのか。そうか、イエス・キリストを殺した悪い奴らだったんだ――ということで差別意識が倍加していく。かかる悪循環で、ユダヤ人に対する差別迫害が定着していったわけです」。

●なぜキリスト教には聖人が沢山いるのか――
「教会に『聖人認定』された人が聖人ですが、それも殉教者を記録したのが始まりのようです。ローマ帝国による4世紀の公認、さらに国教化で、迫害の時代が終わりを告げると、殉教者は少なくなっていきますが、かわりに証聖者が増えていきます。聖なる行いをした人のことで、その行いも多種あって細かく規定されていますが、いずれにせよ聖人は無数にいるし、無数に増やすことができるのです。これら天使たち、聖人たちが多神教の世界のニーズに応えました。それらは守護天使、守護聖人として、しばしば現世利益を約束する存在に位置づけられるからです。・・・これらを利用しながら、キリスト教は多神教の世界に広まっていくために、自らに多神教の要素を取りこんでいったのです」。

非常に勉強になる一冊であるが、「イスラム教」は「イスラーム」と表記すべきと考えます。