『わが闘争』は、ひどいドイツ語で書かれた、無教養な狂信者のプロパガンダの書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2317)】
ススキの穂(写真1)が風に揺れています。ハイビスカス(写真2、3)、ホウセンカ(写真4、5)が咲いています。ニホンミツバチ(写真6、7)をカメラに収めました。
閑話休題、『ヒトラー<わが闘争>とは何か』(クロード・ケテル著、太田佐絵子訳、原書房)のおかげで、ナチスの聖典と位置づけられたアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』について、理解を深めることができました。
ヒトラーの若き時代が描き出されています。「(ウィーンにおける)貧困時代に気持ちのすさんだ落伍者となったヒトラーは、さまざまな憎悪に染まっていく。ハプスブルク家や多民族国家オーストリアへの憎悪、マルクス主義や社会民主主義への憎悪、議会制度への憎悪、『近代ウィーン』への憎悪、そしてユダヤ人への憎悪である。真の友人もなければ女性関係もなく、酒も飲まず煙草も吸わず、誰にも、日記にさえも胸中を明かすことのないヒトラーの病的な内向性を考慮に入れなければならない。カフェや寄宿舎や公共の場所で、新聞記事を読んだり誰かの指摘を聞いてかっとなり、長々と弁じたてているのを目にしていなかったら、というより聞いていなかったら、誰もが彼のことを社会に適応できない人物(慢性的な怠け者であり、かつ継続的努力がまったくできない)だと思っただろう。とはいえ彼は議論したというわけではなく、話し合うこともほとんどなかった。われを忘れてまくしたてるばかりで、わずかな傍聴者を感動させることもなかった。おそらくは徴兵を逃れ続けるため、あるいは反対に、徴兵対象年齢を過ぎた24歳の自分に当局がもう関心を持たないだろうと考えたからかもしれないが、優柔不断なヒトラーはオーストリアを離れ、心の祖国であるドイツに向かう」。
『わが闘争』は何を語っているのでしょうか。「『わが闘争』を読み進めていくのはきわめて困難である。ヨアヒム・フェストはこう書いている。『その細部には曖昧模糊としたところがないではないが、時代の思想的ガラクタをあれこれと盛り込んだ、大胆かつ怖るべき構築物であった。ヒトラーの独創性とはまさに、異質的なもの、およそ両立しがたいようなものを無理やりにつなぎ合わせ、自分のイデオロギー的つぎはぎ細工に濃度をもたせ、さまをつけるという能力に現れていた。つまり、彼の頭脳はほとんど思想を生みだしはしなかったが、大きな力を生みだしたと言えるだろう』。実際のところ新しい思想はないが、民族主義、フェルキッシュ(人種主義)、反ユダヤ主義といった当時オーストリアやドイツに広まっていたテーマについて、体系化、過激化、誇張し、ビアホールでのヒトラーの演説と同様に単純化したのである」。
「ハロルド・ラスキも1942年に同様の分析をしている。『<わが闘争>が明白に示しているように、基本方針がまったくなく、何よりもまず日和見主義の彼にとって、理論は何の意味もない。彼はただ権力のために権力を切望しているだけだ』」。
『わが闘争』の中で、ユダヤ人はどう扱われているのでしょうか。「容赦ない言葉づかいには驚かされる。ユダヤ人は次々に、民族の血を吸うクモ、ネズミ、腐っていく死体の中のウジ、ヒル、民族の吸血鬼、このうえもなく悪質な寄生虫などにたとえられている。ヒトラーはその演説と同様に、知性にではなく感情や直感に訴えかけている。それでもそこから『ユダヤ問題』という結論を引き出していることに変わりはない。『人種問題、したがってユダヤ人問題をきわめて明白に認識するのでなければ、ドイツ国民の再興はもはや行なわれないだろう』」。
ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判では、こう非難されています。「『10年ものあいだ、スラブ人は劣等人種である、ユダヤ人は人間以下であると説き続ければ、そうした数百万人もの人々を殺すのをまったく当然のことと考えてしまうというのは論理的に起こりうることです。<わが闘争>はアウシュヴィッツの焼却炉やマイダネクのガス室に直接つながっていたのです』」。
ヒトラーがユダヤ人の血を引いているという説については、こう記されています。「(歴史家サウル・)フリートレンダーは、ヒトラーが父アロイスを通してユダヤ人の血を引いているという説に触れずにはいられなかった。彼によれば、真の問題はそれが事実か否か知ることではない。『重要なのは彼が自分の出自について疑問を抱き、ユダヤ人の血統であると信じたかもしれないということだ』。そのことが彼を執拗な反ユダヤ主義者にしたのかもしれない。『彼は自分の中にユダヤ人の要素がある可能性を否定している。彼は自分の中に存在するかもしれないユダヤ人を憎んだ。しかしその憎しみを自分自身に向ける代わりに、外にぶつけた』。多くの歴史家によって繰り返されてきた説であるが、しかしこれは推測でしかない。なぜならヒトラーがこのような問題に直面したという証拠は全くないからである」。
1944年7月にヒトラー暗殺未遂事件にかかわったとして逮捕されたことのあるシャハトの「この本はひどいドイツ語で書かれたものであり、無教養な狂信者のプロパガンダの書である」という言葉が、心に重く残ります。