敗戦時、満州開拓団の未婚の娘たちに起こったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2658)】
体長5cmほどのヒガシニホントカゲの幼体(写真1~3)を、私たちの前を歩いていた3人連れの学生が見つけました。撮影助手(女房)がミンミンゼミの雄(写真4)とアブラゼミ(写真5)を指差しました。ミンミンゼミの抜け殻(写真6)は、アブラゼミの抜け殻と似ているが、触角の根元から第3節が第2節と同じ長さならミンミンゼミ、第3節が第2節より長いのはアブラゼミです。私の頭上を飛んで高木に止まったヤマトタマムシを目撃したが、残念ながら撮影できず。キツネノカミソリ(写真7)、アキノタムラソウ(写真8)、オクラ(写真9)が咲いています。ガマの穂(写真10、11)が風に揺れています。
閑話休題、『ソ連兵へ差し出された娘たち』(平井美帆著、集英社)は、重い内容の証言集です。
1945年夏――。日本の敗戦は満州開拓団にとって、地獄の日々の始まりでした。崩壊した満州国に取り残された満州開拓団員たちは、日本への引き揚げ船が出るまで入植地に留まることを決断し、集団難民生活に入りました。しかし、積年の恨みを晴らそうと暴徒化した現地民による襲撃は日毎に激しさを増していきます。そこで、開拓団の幹部らは駅に進駐していたソ連軍司令部に助けを求めたところ、今度は下っ端のソ連兵が入れ替わるようにやって来ては、「女漁り」や略奪を繰り返すようになります。頭を悩ました団長たちが取った手段とは――。
「一七歳(数え年で一八歳)のとき、はるか遠く満州の地において、玲子は最年少で開拓団によるソ連兵の『接待』の犠牲になったのだ」。
「セツを含む元団員から得た情報によると、『接待』役にされたのは、数えで一八歳以上、未婚の女性ということだった。黒川開拓団は総勢六〇〇名あまりから成るが、すべての条件を満たす女性は極めて少ない。満州へ渡ったときに一九、二〇歳くらいとなると、一九四五年八月ごろにはすでに誰かの『妻』となっているケースがほとんどだ。敗戦時に一七歳くらいとなると、渡満時ははやくてもその四年ほど前にさかのぼるため、一三歳だ」。
「黒川開拓団を率いる安江新市は、本部前の広場に団員を集めた。不安げな表情で新市を見つめるのは、一〇代半ばから二一、二歳の独身の娘たちである。国民学校高等科が二十数名であることからして、六〇〇名あまりの大集団といっても若い女性の割合はそう多くはない。新市の頼みごと、つまり事実上の団命令は恐るべき内容だった。身体を張って、犠牲になってほしい――。その意味を理解するにつれ、娘たちは動揺し、混乱に陥った。・・・『ロシア将校の人に頼んで、兵隊がこの開拓団に来ないようになんとか・・・。ちょうど辻さんっていうロシア語の上手な人が逃げてきて、交渉してもらった。そしたら、その代償と言いますかね。娘たちが将校のおもてなしをして、守ってもらうっていう――。兵隊さんに行っている家族を守るのもおまえたちの仕事だし、日本から兵隊さんがたくさん出て、日本を守ってくださるのが兵隊さんの仕事、それは開拓団を守るのか、このまま自滅してしまうのか、おまえたちの力にあるんだってことを言われたんですね。それで私どもはね、本当に悲しかったけども、開拓団の何百名の命を救うために、私たちは泣きながらそういう接待のお相手をすることになってしまった』(当時ニ一歳だった善子)」。
「数え年で一八歳以上であること、未婚であること――。犠牲に出る者の条件に当てはまるのは、一五、六名にまで絞られた。しかし、一律に決めた線引きは、実質的な不平等を生んだ」。
「接待室に行かされた娘に対し、いかに惨い蹂躙が行われていたか。善子はあとから『乙女の碑』を記した紙に、直接赤ペンでこのように書き込んでいる。<ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった 泣いてもさけんでも誰も助けてくれない お母さんお母さんの声が聞こえる>」。
「声を殺して泣く声が聞こえる。まわりからも母親を呼ぶ声がする。ソ連兵らに解放されると、みんな倒れたまま肩を震わせて泣いていた。身体の痛みより、悲しくて泣いていた。ショックのあまり、玲子は何も考えられなかった。激痛とともに深い絶望感が襲ってきた。むごたらしい強姦、輪姦の場は『接待』と呼ばれた。悪夢は一回では終わらず、それから何度も引っぱり出された。・・・開拓女塾では、貞操観念や大和魂を叩きこまれた。それなのに、敗戦になるや否や、兵隊にいっている家族を守るためにと、外国人兵らに犯されるのを強いられる。・・・一七歳の玲子が置かれた状況は孤独なうえ、残酷すぎた。屈強なソ連兵らに玩具のように幾度も犯された」。
戦争の惨い一面が剥き出しにされた一冊です。
松本清張の短篇『赤いくじ』(松本清張著、新潮文庫『或る「小倉日記」伝』所収)を思い浮かべてしまいました。