アダム・スミスは、経済学者というよりも、哲学者であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2545)】
イズヨシノ(写真1~7)、オオヤマザクラ(写真8)、ハナモモ(写真9~12)が咲いています。撮影助手(女房)は写真を撮られるのが嫌いで、私のカメラに気づくとスマホで顔を隠します。因みに、本日の歩数は14,038でした。
閑話休題、『アダム・スミス 共感の経済学』(ジェシー・ノーマン著、村井章子訳、早川書房)は、近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、利己主義を擁護した、金持ちを贔屓した、自由放任を信奉したと非難されるが、これらはいずれも誤解だと喝破しています。
著者は、これらの誤解を解く鍵は、『国富論』に比し軽視されがちな『道徳感情論』を併せ読むことにあると主張し、その根拠を明示しています。
<自分の行動を自ずと是認するとき、しないときの原理は、他人の行動について判断を下すときの原理とまったく同じだと思われる。他人の行動については、その人の事情を十分に知ったとき、その行動を促した感情や動機に全面的に共感できるかできないかによって、是認するかしないかを判断する。同様に自分自身の行動については、自分を他人の立場に置いてみて、言うなれば他人の目でもって他人の立場から自分の行動を眺めてみて、その行動を支配した感情や動機に全面的に共感できるかできないかによって、是認するかしないかを判断する>という『道徳感情論』の一節から、スミスが「共感」を重視していることが分かります。スミスは、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で示した、人間の自然状態は『万人の万人に対する闘争』であるという前提を批判し、人間の持つ『共感』を共通の出発点として、人間そのものの中に道徳や規範の根拠を求めようとしたのです。そして、社会秩序は、神や聖書といった超越的な存在や理性によってではなく、道徳感情によって基礎づけられていると考えたのです。
スミスは、女性の労働を正当に評価しなかったのか――。「『国富論』ではたしかに女性への言及は少ない。それでも、スミスは女性の賃金労働も無給の労働もきちんと認めている。妻や娘が家族のために糸を紡ぎ服を作るのは、家事万端を担うことに加えて家計を助けているにもかかわらず、『公式の記録の対象にならないことが多い』とスミスは指摘した。家事や介護がGDPに反映されないとして今日問題になっていることを、まさに先取りしたと言えよう。・・・こうしたわけだから、スミスが他の多くの学者と同じく女性の地位をないがしろにしたという批判は当たらない。女性の経済主体としての役割も、社会的・道徳的な価値も、スミスはしっかりと評価していた」。「一部のフェミニスト作家の批判とは正反対に、スミスの道徳観は女性の蔑視や軽視を禁じるものである。彼は女性が虐げられる可能性を十分に認識しており、きわめて平等主義的な世界のあり方を論じた」。
スミスは、奴隷制を容認していたのか――。「スミスは奴隷制も奴隷貿易も嫌悪していたし、どちらも重商主義と独占によって助長されたと力を込めて主張している。(奴隷制が)『自然的自由の体系』の必然の結果だなどとはとんでもないことだ」。
控えめなスミスの人柄があまり知られていないのは、なぜか――。①スミス自身が控えめで目立つことを嫌った、②スミスの人柄が窺われる『道徳感情論』が、『国富論』の名声のせいで影が薄くなってしまった――と、その理由を挙げています。
スミスにとって、母親とは――。「(母マーガレット・スミスの死は)スミスにとってはたいへんな痛手だった。女手一つで息子を育て上げ、成人になってからも長い間世話をし、のちには(アダムの従姉)ジャネット・ダグラスの手を借りて家を切り盛りした。途中に中断はあったものの、母子はおよそ60年にわたって同じ家に暮らしていたのである。スミスが悲嘆にくれたのも無理もない」。
私にとって最も衝撃的だったのは、スミスは経済学者というよりも、哲学者であったという指摘です。巻末の解説に、「道徳哲学者、法学者、文学者といった多彩な顔を持っていたスミスの真の姿は哲学者であり、本人自らもそのように考えていた。スミスは、経済活動を政治学、心理学、社会学、倫理学などから切り離したような、部分的な説明を是としなかった。彼にとっての経済活動は、これらすべてを包括した『人間の科学』の一分野に過ぎなかったのである」と記されています。
スミスの思想と人間像を深く理解しようとするとき、欠かすことのできない評伝です。