第二次世界大戦の戦争記念碑には、いろいろと考えさせられる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2644)】
ヤブカンゾウ(写真1)、サルスベリ(写真2~4)が咲いています。オオシオカラトンボの雄(写真5)をカメラに収めました。
閑話休題、『戦争記念碑は物語る――第二次世界大戦の記憶に囚われて』(キース・ロウ著、田中直訳、白水社)で、とりわけ印象に残ったのは、●ダグラス・マッカーサー上陸記念碑、●オランダ国立記念碑、●カチン記念碑――の3つです。
●ダグラス・マッカーサー上陸記念碑
「フィリピンのレイテ島沿岸部にあるパロという街には、そのような記念碑を見ることができる。この記念碑は海岸近くの水溜りに立つ7体の像で構成されている。それらは、1944年に日本からの解放を主導したアメリカ軍の将校や側近たちを実物大で表現したものである。その中には、当時のフィリピン大統領セルヒオ・オスメニャの姿もあるが、彼が主役ではない。誰よりも背が高く、中央に位置しているのは、南西太平洋地域における連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥である。彼は真っすぐに立って胸をはり、肩を落とし、海岸に向かって堂々と歩を進めている。彼の目は黒いサングラスの奥に隠れてはいるが、その視線は彼が今から解放しようとしている土地に向けられていることは明らかである。ダグラス・マッカーサー上陸記念碑は。1944年にこの海岸線で撮影された、解放者たちが初めて上陸する時の写真を基に作られている。アメリカ兵を称える多くの記念碑と同様に、この記念碑は忍耐、勇気、善意、救済、勝利といった、様々な英雄的美徳を表象している。しかし、他の多くの記念碑とは異なり、この碑は一般的な英雄やアメリカの人々ではなく、実在する歴史上の人物にその美徳を見出しているのである。しかも、ただの人物にではなく、この戦争で最も物議を醸した将軍の一人であるダグラス・マッカーサーに、である」。
「マッカーサーが卓越した指揮官であったとするならば、彼は同時に非常にナルシストな指揮官でもあった。あのマッカーサーが上陸している写真が有名になったのは、単なる偶然ではなく、マッカーサー自身がそれに協力したからである。この写真は、彼の個人的な写真家であるガエタノ・ヘェレスによって撮影され、彼の個人的な広報チームによって宣伝された。このチームは、将軍を良く見せるために、真実を誇張することで知られていた。彼らはしばしば、マッカーサーが部下と一緒に前線にいるかのように見せかけたが、実際は何百キロも離れたオーストラリアの安全な場所にいたのである。・・・彼の死後、マッカーサーの道徳的性格についても疑問が生じ始めた。・・・ダグラス・マッカーサーについてこのようなことを知った後でも、これまでと同じようにこの記念碑を見ることができるだろうか。この碑は、勇気、忍耐、道徳といった美徳を称えるものとされていたが、それが不注意にも、虚栄心、傲慢さ、腐敗といった別のものを称えていたとしたらどうだろうか。そして、これらが、マッカーサーと介してアメリカと同一視されることになったとしたらどうだろうか」。何とも辛口な告発ですね。
●オランダ国立記念碑
「第二次世界大戦中の犠牲者を象徴する人物を探すのなら、まずはヨーロッパのユダヤ人からあたるのが適切であろう。オランダでは、ユダヤ人は全人口の1.5パーセントに過ぎなかったが、終戦時にはオランダの全死傷者の半分を占めていた。ユダヤ人はオランダのどの集団よりも特別視されていた。彼らは容赦なく追い詰められ、列車に詰め込まれ、東の強制収容所に送られた。そこでは、到着後、すぐに殺害されるか、働かされながら、時間をかけて殺された。約11万人が強制移送され、戻ってきたのはわずか5000人ほどであった。今日では、死者を想起する記念碑に、そのような人々を含めるだけでなく、誇りを与えて顕彰することは当然のことのように思える。では、なぜオランダの国立記念碑は彼らを無視しているのだろうか。・・・このような(オランダ人の)無神経さは主に無知から生まれたというのが、ここでの寛大なる弁明である。ホロコーストが人々の目の前で起こった東欧とは異なり、オランダでは、ユダヤ人が強制移送された後に何が起こったのかについては、漠然とした認識しかなかった。多くのオランダ人は、ユダヤ人の苦しみなど、ほとんど理解していなかったのである。この無知が、この国立記念碑にまで及んでいる可能性は十分ありうる。製作者は彼らの苦しみを、別のカテゴリーとして表現しようとは考えなかったのだ」。
「オランダでユダヤ人の運命が正しく認識されるまでには何年もかかったが、やがて状況は変化した。それは1947年にアンネ・フランクの日記が出版されたことから始まった。このユダヤ人の10代の少女は、家族と一緒に2年以上もの間、身を隠すことを余儀なくされていた。彼らはアンネの父親が商売をしていた建物の奥の部屋に住み、本棚の後ろに隠された秘密の扉から出入りしていた。最終的にアンネの一家は1944年の8月に見つけ出され、ドイツとその占領下のポーランドの強制収容所に強制移送された。アンネ・フランクは1945年の初めにベルゲン-ベルゼンで亡くなったが、彼女の日記は生き残り、世界的なベストセラーとなった。戦後、アムステルダムに生きたユダヤ人たちが、沈黙し疎外されていたとしても、この本は少なくとも彼らに何らかの声を与えたことになる。1950年代後半、家族の中で唯一生き残ったアンネの父、オットー・フランクは、戦時中に隠れ住んだ建物を購入し、博物館へと改築した。1960年に開館して以来、この博物館の重要性は徐々に高まっていった。現在では毎年100万人以上がここを訪れ、国内で最も来館者数の多い博物館の一つとなっている」。『アンネの日記』が出版される前と後とで、オランダ人のユダヤ人に対する認識がこんなに違っていたとは、全く知りませんでした。
アウシュヴィッツを扱った章に、こういう記述があります。「アウシュヴィッツは、単一の強制収容所ではなく、複合的な収容所であった。最盛期には、40もの収容所が別々の場所に点在していたが、そのほとんどが工場や農場を中心とした場所で、様々な国籍や宗教的背景を持つ囚人たちが、奴隷労働者として過酷な条件の下で働かされていた。しかし1942年以降、ここアウシュヴィッツは第2の目的、つまりヨーロッパのユダヤ人を大量に殺害するという目的にも利用されるようになった。今日、多くの人がアウシュヴィッツといえば、主に2つの主要な収容所を思い浮かべることだろう。アウシュヴィッツ第1強制収容所とアウシュヴィッツ第2強制収容所(別名ビルケナウ)である」。アンネは第2強制収容所からベルゲン-ベルゼン強制収容所に移され、ここでチフスによって死亡したのです。
●カチン記念碑
「ハドソン川の見下ろすジャージーシティには、世界でも最もドラマチックな第二次世界大戦の記念碑が建っている。花崗岩の台座の上に立つ高さ10メートルのブロンズ像は、束縛され、猿轡を噛まされた兵士が、その背中を銃剣で突き刺されている姿で彫刻されている。彼は死の苦しみの中にいるように見える。痛みに悶えて身体を弓なりにのけ反らせ、顔は天を仰いでいる。そして銃剣に先はまさに心臓のある左胸を貫通している。(1991年に設置された)この記念碑は、1940年にソ連の秘密警察が行った残虐行為、すなわちロシアのカチンの森で何千人ものポーランド人将校が虐殺された事件を顕彰している」。
「国際史、国家史、地域史、個人史・・・これらの歴史のそれぞれの層が、この一つの記念碑に表現されている。そして、それぞれの層には、トラウマや苦しみや裏切りの深い感情が込められている。カチン記念碑は、世界で最も感情を揺さぶられる記念碑の一つである。そのため、スティーブン・フループ市長が、単に商業的な再開発のためだけに、この記念碑をエクスチェンジ・プレイスから移動させるという驚きの発表をしたことが、これほどまでに防御的な怒りをもって迎えられたのも不思議ではないだろう。・・・カチン記念碑は、1945年以降に亡命を余儀なくされたポーランド人に特有の、ある種の喪失感と犠牲を記念するものなのだ。ジャージーシティのカチン記念碑が、ポーランド国内に存在する数々のカチン記念碑よりもはるかに生々しく、ドラマチックであるのは偶然ではない。この記念碑を建てた人々は、友人や家族だけでなく、故郷や貴族意識を失っていた。彼らの中には、1945年以降、二度とポーランドを見ることができなかった人もいる。彼らのポーランド人らしさというものは、他の人々、たとえ他のポーランド人であってもけして理解できない方法で、この記念碑によって定義されたのだ」。
いろいろと考えさせられる一冊です。