穂高を愛し続けた男の手記・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2669)】
カノコユリ(写真1)、テッポウユリ(写真2、3)、タカサゴユリ(写真4、5)、クレマチス・ジャックマニー系‘ホワイト・プリンス・チャールズ’(写真7)、ムクゲ(写真8)、フヨウ(写真9)、オクラ(写真10、11)、ハツユキソウ(写真12、13)、オミナエシ(写真14、15)が咲いています。
閑話休題、手記『穂高を愛して二十年』(小山義治著、山と溪谷社・ヤマケイ文庫)には、穂高を愛し続けた小山義治の熱い思いが籠もっています。
「頂上には滝谷登攀に入山していた石岡さん一行が私たちを見守っていた。そして、私たちの驚異的な健闘をたたえ、北穂高小屋の将来を祝福してくれた。『北穂高頂上へ山小屋を建てるのは、技術的にひそかな疑問を持っていました。しかしこの梁を背負い上げるのを見て、もう何も言うことはありません。こんな所で朝夕滝谷が見られるなど、山を愛する者にとって至高の希いだ。これはまた直接自分たち山男の夢にも通ずるものです』。私は山登りの先輩からそう言って貰うのが身にしみて嬉しかった。北穂高小屋を我が家のように利用し、育ててくれることを念じ、私たちは良き同志を得たことをあらためてよろこび合った」。
「霧がだんだん濃くなって小雨に変わった。棟上げは実に忙しく、四人がてんてこ舞いだった。初め土台を決められた位置にすえ、片側の柱へ貫を差し、桁を組んで建てて筋かいで止め、反対側を同様に建てる。次に妻側と両側を組み合わせると、ようやく家らしくなった。それから例の大きな梁をのせ、束を立てて、最後に棟木をあげる。生まれて初めて建つ自分の家、それも標高三一〇〇メートル、南北アルプス最高所の山小屋だ。私はかけやを力一ぱい振って、がっちりと棟木を叩き込んだ。何という深い感動だろう。この日のために、どれほど苦しみに堪え、自ら厳しい戒律を課したことであろう。また私の人生における重大な試金石として、得難い体験だった。しかし私は多くを語らなかった。何とも表現のしようもない喜悦、協力してくれた人々への深い感謝に満たされて、私は胸が熱くなるのを覚えた」。
「完成した北穂高小屋は、わずか十坪の広さ、頂上直下に、ほんの小さい岩こぶのように、くっ付いているに過ぎないけれど、私にとっては何年もの間、夢にも忘れられなかった山小屋だった。私の山小屋は今静かに厳しい冬を迎えようとしていた。苛酷な山の嵐にも堪えるように祈りながら、私たち兄弟は、十月二十七日、去り難い山小屋を後に、膝を没する新雪を踏んで下っていった」。
「山小屋は建てたが、経営に暗く、同業者の失笑を買うことが多かったので、その場、徳沢園をやめた西山隠居に、一九四九年から五一年の三夏、小屋へ登って面倒をみて貰った。その間、私には多くの山の友達ができ、若い人を育てることもできた。私たち兄弟と友人だけで、涸沢から北穂高へ登る南稜の道も作り、薪や物資の荷上げも人夫の手を借りなかった。滝谷の岩場に新しいルートもいくつか展き、意欲的な登攀を繰り返したのもその頃だった。四九年の晩秋、夏山の収入もたいしてないのに、遠見尾根の麓へ無理をしてスキー小屋を建てたので、私は極度に貧乏になった。冬の三カ月は弟と西山隠居をまじえて三人がどうにか暮らしたが、スキー・ブームの気配すらなかった当時では、ほとんど商売にもならず、春になると大切な本までルックザックに詰めて古本屋へ売りにいったり、生まれてはじめて質屋へも通った」。
「一九五七年七月十三日、私にとって衝撃的な、魂を根底からゆさぶられる不幸がおきた。北穂高と私を慕う少女が、北穂沢の雪渓で墜落した。・・・私は少女の名を呼びながらしっかりと抱きあげた。体温がまだ生きている時と同じだった。それが私の心を激しく乱し、彼女を深く愛していたことを知った。帰らざる者へも愛情と悔恨に、私は燃え苦しんだ。これほど死を残酷に思い、呪ったことがかつてあったろうか。嵐のような激情に胸を引きさかれ、狂ったように幾度も少女を抱きしめた」。
著者自身の体験談だけに、いずれのエピソードも迫力があります。