戦国時代の戦国大名と並ぶ主役、国衆とは何か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2728)】
コスモス(写真1~5)、キバナコスモス(写真6~8)、ショウキズイセン(ショウキラン、リコリス・トラワビ。写真9、10)、ホトトギス(写真11)、キダチチョウセンアサガオ(エンジェルズトランペット。写真12、13)が咲いています。あちこちで、キンモクセイ(写真14~17)が芳香を放っています。
閑話休題、『国衆――戦国時代のもう一つの主役』(黒田基樹著、平凡社新書)のおかげで、国衆(くにしゅう)という存在を理解することができました。信濃・上野の真田家を通じて国衆の思考・行動を学ぶことができました。戦国大名になった国衆の実例として、安芸の毛利元就・隆元、三河の徳川家康、土佐の長宗我部元親、肥前の竜造寺隆信が挙げられています。
●国衆とは何か
「戦国大名の領国の外縁部には、『国衆』と称する存在が多数みられていた。すなわち戦国大名というのは、国衆と称する存在を、領国内に編成することで、広域の領国を形成した存在となる。・・・国衆とは、戦国時代に存在した領国を独自に統治する、自立的な領域国家である。しかし政治的・軍事的に独立して存在することができなかったため、戦国大名に従属する立場にあった。逆にいえば戦国大名とは、そうした国衆を従属させて、その領国をも含めて、広大な領国を形成した存在をいった。・・・国衆こそが、戦国大名の基礎を構成し、その政治動向を規定していたのであった。このことからみて、戦国時代の主役は、戦国大名ではなく、むしろ国衆であったとすらいっていいほどであろう」。
●信濃国上田領・上野国沼田領の真田家のケース
「国衆となった真田家は、真田幸綱(『幸隆』とするのは誤り)に始まる。永正10(1513)年生まれで、海野領の国衆・海野棟綱の娘婿になっていた。・・・(海野家を去り、単身、武田信玄に出仕した)幸綱は天文19(1550)年に、信玄から信濃で所領を与えられ、一軍を構成するようになっている。・・・(軍功を上げた)幸綱は、松尾城(上田市)を本拠に、一円的な領国を形成し、国衆としての地位を確立したとみなされる、・・・外様ながら無足(所領のない状態)から信玄に仕えて、武田家への奉公を続けた存在として、国衆ながらも『譜代衆同意』として、譜代家老に準ずる扱いをうけた。・・・幸綱は、元亀元(1570)年までに、家督を嫡男信綱に譲り、天正2(1574)年に死去した。・・・(しかし信綱が戦死してしまったため、武田勝頼<信玄の子>は、幸綱の三男で、武田家の譜代家臣の武藤家の家督を継いでいた)昌幸に、真田家の家督を継がせた。昌幸は天文16年生まれの29歳であった。これにより真田家は、国衆であるとともに、武田家の譜代家臣でもあるという性格をあわせもつものとなった。・・・真田家が、多くの領国を有する有力な国衆となるのは、武田家の滅亡後のことであった。・・・武田家滅亡後、信濃では戦乱が継続される状態になった。その戦乱のなかで真田家は、織田政権→上杉家→北条家→徳川家→上杉家へと、従属する先の大名を変遷した。・・・天正15(1587)年2月に、昌幸は羽柴秀吉のもとに出頭し、従属した。領国はそのまま安堵されたものの、秀吉直臣の『小名』の立場になり、さらに徳川家に付属され、その与力大名とされた。ここに真田家は、羽柴政権への従属によって、国衆としての性格を終えるものとなる」。昌幸は、真田信之・信繁(幸村)兄弟の父です。