榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

北条氏が最大のライヴァル・三浦氏を滅ぼし、権力を確立した宝治合戦の経緯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2772)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年11月18日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2772)

ウラギンシジミの雄(写真1)、ベニシジミ(写真2、3)をカメラに収めました。我が家から歩いて30分ほどの東京大学柏キャンパスは、知のワンダーランドです。大学院生になった気分で、食堂で昼食を摂りました(笑)。因みに、本日の歩数は11,058でした。

閑話休題、『宝治合戦――北条得宗家と三浦一族の最終戦争』(細川重男著、朝日新書)のおかげで、北条氏が最大のライヴァル・三浦氏を滅ぼし、権力を確立した宝治合戦の経緯を知ることができました。

「この事件(=一族の名越光時との闘争)を『鎌倉年代記裏書』は『宮(みや)騒動』と呼んでいる。執権になって間もない20歳の北条時頼は、正統な執権継承者ではないという大きな弱点がありながら、大軍勢を背景に戦闘をも辞さないという姿勢を示すことにより、相手方を自壊させ、宮騒動に勝利した。だが、この勝利は不徹底なものでもあった。将軍派最大の勢力を有する三浦氏は、泰村・光村兄弟が評定衆に在職し続けていることでわかるとおり、無傷であった。・・・前将軍(九条)頼経を京都に送還したことで、宮騒動は時頼とその陣営の勝利となった。だが、問題の根本的解決は、翌宝治元(1247)年の戦乱、すなわち宝治合戦を待たねばならない」。

「宮騒動と(三浦氏が滅亡した)宝治合戦によって、時頼は政権中枢から反対派を完全に除去したのである。宝治元年6月5日の宝治合戦によって、執権北条時頼は21歳にして権力を確立したのであった」。

「宝治合戦には、三浦氏と安達氏による北条氏外戚位争奪戦の側面がある。・・・宝治合戦では、執権時頼の母の実家である安達景盛率いる安達氏が、時頼の祖母の実家である三浦泰村率いる三浦氏に対し挑発を繰り返し、最後は奇襲によって三浦氏を滅亡に追い込んだのである。・・・宝治合戦は、通説通り最後の『北条氏の他氏排斥事件』なのである。(時頼の戦乱回避の)すべての努力が実ること無く戦乱は起こり、三浦氏が滅んだことを、北条時頼がどのように思ったかとは無関係に、時頼は宮騒動に続く宝治合戦に勝利することにより、北条氏の権力を確立したのである」。

「(宝治)合戦によって権力を確立した執権時頼は、以後、16年余にわたり、関東の支配者たり続け、弘長3(1263)年11月22日、37歳で没した」。