榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ヒッタイト帝国の栄枯盛衰が明らかになってきたぞ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2834)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年1月19日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2834)

トビ(写真1~4)が2羽、上空をゆっくり旋回しています。アオサギ(写真5)、キジの雌(写真6)、ツグミ(写真7~10)をカメラに収めました。

閑話休題、『鉄を生みだした帝国――ヒッタイト発掘』(大村幸弘著、NHKブックス)を読んで私が大村幸弘に魅せられたのは、41年前のことでした。今回、『ヒッタイトに魅せられて――考古学者に漫画家が質問!!』(大村幸弘・篠原千絵著、山川出版社)を読んで驚いたことが、3つあります。

第1は、大村が現在に至るまでヒッタイトの発掘を続けていること。

第2は、長年の発掘・研究によって、ヒッタイト帝国の栄枯盛衰が明らかになってきたこと。

第3は、質問役の漫画家・篠原千絵のヒッタイトに関する知識が玄人跣(くろうとはだし)であること。

「旧約聖書に『ヘテ人(びと)』として出てくるのがいわゆるヒッタイトの人々のことですが、どんな国で、どんな文化をもった人々なのか、その所在さえもよくわからないままでした。でも19世紀後半、エジプトのテル=エル=アマルナ遺跡(一時、古代エジプト王国の首都)から外交文書(アマルナ文書)が発見されましてね。これはエジプトのアメンヘテプ4世(在位前1352~前1336年頃)の治世に、ヒッタイトやミタンニ、アッシリアやバビロニアなど周辺諸国の諸王たちと交わしていた書簡群で、それらが解読されていくなかで、ヒッタイトがかなりの大帝国だったという輪郭が見えてきます。その後、20世紀初頭にヴィンクラーというドイツの言語学者が、アンカラの東約150キロにあるボアズキョイという村の遺跡を発掘したときに、ものすごい数の楔形文字が刻まれた粘土板(ボアズキョイ文書)を見つけたんです。その結果、そこがヒッタイト帝国の首都ハットゥシャであったことが判明します。・・・よく考古学における大発見、世紀の大発見というと、誰もがエジプトのツタンカーメン王墓の発見のことをあげると思うのですが、ぼくは、ヴィンクラーが出土した楔形文字の粘土板を現場で解読しちゃったことのほうがもっとすごいと思うし、現場で解読している最中にヒッタイト帝国を発見したほうが『奇跡』に近いですよね。こんなことはそうあり得ない。それもエジプト王国と対峙していたヒッタイト帝国の都を見つけたんですから、それは驚きというか、発掘を志そうとしていたぼくは強い影響を受けましたよね」。

「前14世紀の初頭に、ヒッタイトを一王国から古代中近東世界のなかでエジプト王国と比肩する大帝国の地位まで引き上げたのがシュッピルリウマ1世(在位前1380~1346年)でしょう。軍事的才能を持ち合わせていたシュッピルリウマはシリアへの遠征を行っています。シリアに遠征するということは古代中近東世界の最大の勢力を握っていたエジプトとの対峙を意味しているわけです。・・・長く続いた国内の混乱を収拾したシュッピルリウマはカルケミシュで、エジプトのツタンカーメンと死別した妃アンケセナーメンから、ヒッタイト王の息子を夫として迎えたいと申し出る書簡を受け取っています。ちょっと考えられない話ですよね。シュッピルリウマはエジプトに息子ザナンザを送りますが、ただ、途次に暗殺されてしまう。もし、息子がエジプトの都であるテーベにたどり着いていたなら古代中近東世界はどのような展開を見せたかと思うと残念ですが、この話は当時のヒッタイト帝国がいかに強大だったかを物語っていると思います」。

「しばらく(エジプトとヒッタイト)両国のにらみ合いが続いて、その状態に終止符が打たれたのが(エジプトの)ラムセス2世と、(シュッピルリウマの4代後の王)ハットゥシリ3世との間で結ばれた和平条約(前1259年)でした。これが先ほどお話しした、エジプトのカルナック神殿の壁に記されていたのと同じ和平文書をヴィンクラーがボアズキョイで発見し、そこがヒッタイトの首都ハットゥシャであることの決め手になったものです」。

「エジプト文明は、地理的にエジプトに限定された文明で、世界史へは強い影響を与えていたとはどうしても思えない。一方のヒッタイトはどうかというと、紀元前12世紀頃にエーゲ海周辺に古代ギリシアの都市国家ポリスが形成されはじめます。じつはこのころにヒッタイト帝国が滅亡しているのですが、その文化的影響がその後のギリシア文明に引き継がれて、そしてローマ、ヨーロッパへと流れていった。ですから、ゲルマン、アングロ・サクソンの流れのなかでヒッタイトを捉えることができるし、そのなかに彼らヨーロッパの人々はアイデンティティを求める。・・・ヒッタイトが独占していたと考えられる製鉄技術にしても、ヒッタイトが滅亡したのと同時に、瞬く間に東地中海世界に鉄器が普及していきます」。

「その後の発掘でわかってきたことなどをあわせて考えると、『海の民』によって(ヒッタイトが)滅ぼされたとか、そういう単純な話ではなかったんだと思います。いまのぼくの見方は、大きな天候の異変が起こって主食であった小麦などの農作物が確保できなくなったことが滅亡の引き金になったのではないかと考えています。農作物の生産量が一気に落ちて、経済が疲弊して帝国内が混乱するなかで、外部からの侵攻などが重なって滅亡していったというのが、現在のほくの見方ですね」。