さまざまな知識人たちが一刀両断にされている本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2923)】
アオサギ(写真1~3)が日光浴をしています。ヒラドツツジ(写真4~6)、ボタン(写真7~10)、スナップエンドウ(写真11、12)、ヤハズエンドウ(写真13)、ユウゲショウ(写真14)が咲いています。クルメツツジ(キリシマツツジ)とレッドロビンが競演しています(写真15)。因みに、本日の歩数は11,073でした。
閑話休題、『徳川時代はそんなにいい時代だったのか』(小谷野敦著、中央公論新社)では、小谷野敦の独断で、実名を挙げられた、さまざまな知識人たちが遠慮会釈なく一刀両断にされています。
例えば、渡辺京二の場合は、こんなふうです。「前世紀末に出た渡辺京二の『逝きし世の面影』という本は、じわじわと世評が高まり、平凡社ライブラリーに平川祐弘の解説つきで入ったころには絶賛しない人なしというに近い状態だったが、私は徹底批判した。世紀の愚書だと考えている。渡辺は西洋人が幕末から明治についての日本について記した著作を読み、日本を褒めてくれれば手放しで喜び、貶されれば色をなして怒るという痴呆的な態度をとっている。裸体論については渡辺の見解が間違っているが、全体について一つのことを言いたいと思う。渡辺は、西洋人の手記に描かれた日本の庶民が、明るい、笑顔だといったことを書く。だがそれは、自足している人間の明るさである。『置かれた場所で咲きなさい』という著作があったが、それがキリスト教の保守的な人の著作であることから分かるように、貧農の子に生まれれば貧農の子であることに自足する、自足せよという身分制度が、保守の思想である」。
「近代最初のベストセラーが福沢諭吉の『学問のすすめ』であり、それが、学問をすれば人は生まれた地位より上へいけると教えたものであったことから分かる通り、近代は人が、生まれた地位より上へ行けることを教えた。貧農の子に生まれても能力があれば大学教授にも総理大臣にもなれることを教えた。そのことを知れば人は、渡辺京二が描いたような幸福な笑顔の中にいることはできない。目をつりあげても、よりよい地位に行こうとする。そしてそのことは徳川日本では極めて難しいことであった」。小谷野の言いたいことは分かるが、現に大学教授や総理大臣になっている人物は本当に能力があるのか、と突っ込みを入れたくなります。
「現代の『学歴社会』や『受験競争』を非難し嫌悪する人は多いが、彼らはその代わりにどのような世界をよしとしているのであろうか。もしそれが、徳川時代のような社会であれば、とんだ間違いである。農民の子に生まれれば農民、職人の子に生まれれば職人というのが徳川時代の基本であり、子供は自分の能力に応じて社会へ出ていくことはできないのである。もちろん、近代になっても、能力が乏しければ仕方がない。くじ引きなどと言う人もいるが、くじ引きで総理大臣を選ぶのだろうか。能力に応じて職業が選べるのはすばらしいことである」。
ドストエフスキーも滅多切りにされています。「ドストエフスキーは、ロシヤの文豪として日本でも人気があるが、ユダヤ人差別者の原理主義キリスト教徒であった。『罪と罰』で殺される金貸しの老婆もユダヤ人だから、ドストはラスコーリニコフに甘いのだし、『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナが、資産家の情婦であったといってむやみとこれを恥じるのも、その資産家がおそらくユダヤ人だからである。ドストは、こういうユダヤ人差別を悪いとも何とも思っていないのである」。
小谷野は、フランス革命時代の首切り役人の生まれ変わりか!