榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

若い荻生徂徠が先達の伊藤仁斎を批判した背景とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2937)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年5月4日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2937)

イワツバメ(写真1)たち、コチドリ(写真2~4)たちが盛んに鳴き交わしています。ホオジロの雄(写真5)が囀っています。タシギ(写真6)、ダイサギ(写真7)をカメラに収めました。ブラシノキ(写真8~10)、キショウブ(写真11、12)が咲いています。スタージャスミン(写真13、14)が芳香を放っています。金星が輝いています(写真16)。因みに、本日の歩数は11,348でした。

閑話休題、『伊藤仁斎――孔孟の真血脈を知る』(澤井恵一著、ミネルヴャ日本評伝選)の巻末の仁斎年譜の元禄16(1703)年(仁斎77歳)に「荻生徂徠、仁斎宛に書翰を送るも返事を得られず」とあり、正徳4(1714)年(仁斎没後9年経過)に「徂徠『蘐園随筆』を出版し、そのなかで仁斎を批判する」とあるのが気にかかり、『荻生徂徠』(田尻祐一郎著、明徳出版社)を手にしました。

「(柳沢吉保に仕える同僚で、仁斎の門人の渡辺)子固を介して、徂徠はかねてからの思いを込めて、仁斎に一通の書簡を送った。・・・礼を尽くし辞を低くして、徂徠は、仁斎の教えを求めたのである。自分の中に芽生えつつある朱子学への飽き足りない思い、それに何とかして形を与え、その意味を探ってみたい、その方法を仁斎との交渉によって見出せるのではないか、そういう気持ちがこの手紙を書かせたのである。しかし、この手紙に返事が届けられることはなかった。この時、仁斎は既に病床にあり、翌年には亡くなってしまったからである。享年79であった。徂徠の落胆は深かっただろう」。

「正徳4(1714)年、徂徠は、仁斎の学問を厳しく批判した書物を公刊した。『蘐園随筆』5巻である。・・・一方では早くから仁斎への共鳴を抱きながら、他方では、朱子学に対する仁斎の全否定には賛成できずにいた徂徠が、朱子学の力点を微妙に移動することで、あるいは朱子学の概念構成に新しい含意を導入することで、仁斎からする朱子学全否定に対抗してみようという意図が込められていた。一方で仁斎への共鳴を抱きながら、しかし結論的には朱子学の正統性を守ろうとする、やや屈折した性格をもったこの書物は、後の徂徠からすれば、『蘐園随筆は、不佞(わたくし)未熟の時の書に候』と述べられ、・・・大きな枠組みとしては朱子学の中に留まった、その意味で後の徂徠からすれば意に満たないものであった。しかもこの書物の巻五は、仁斎の漢文の用字・用法の誤りを、一つひとつ実例を挙げて指摘してみせるという、いかにも『客気』の横溢を感じさせずにはおかない代物であった」。

「徂徠はこうして、基本的な枠組みとして朱子学を採ってはいたものの、仁斎の学問にあるいは共鳴し、あるいは不満を感じ、仁斎の投げ掛けたものを受け取りながら朱子学を捉え返そうとしていった。ある段階まではひたすら共鳴していて、後に一方的に批判に転じたというような簡単なものではないし、その逆でもない。複雑に入りくんだ、錯綜した過程だったと言うべきであろう。いずれにせよ、仁斎が朱子学否定という形で投げ掛けたものを受け取り、それをより高い次元に昇華させようとする中から、はじめて徂徠らしい思想が生まれていくのである」。