哲学者たちは「友情」をどう捉えたのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2949)】
耕地のアシ(ヨシ)原のあちこちで、オオヨシキリの雄(写真1~5)たちが盛んに囀っています。キジの雄(写真6)、雌(写真7~9)、チュウサギ(写真10~13)、ダイサギ(写真14)、クサガメ(写真15、16)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,766でした。
閑話休題、『友情を哲学する――七人の哲学者たちの友情観』(戸谷洋志著、光文社新書)では、7人の哲学者たちの友情観が考察されています。
●アリストテレス――友情とは何か
「アリストテレスは、友情を自律的な個人による愛の関係として捉えた。彼は、善良さに基づく友情を理想とし、そこでは友達が『もう一人の自分』と見なされると説いた」。
●イマヌエル・カント――友達のための嘘は許されるか
「カントもまた、友情を自律的な個人同士の関係として捉えた。彼にとって自律性とは、自分の欲求に支配されることなく、道徳法則に従うことができる、ということである、そうした自律性に対して人間は尊敬を抱く。したがって、友情には愛だけではなく尊敬もまた必要である。彼は人間の自律性を徹底的に洗練させようとした」。
●フリードリッヒ・ニーチェ――友達とわかり合うことができるか
「アリストテレスとカントは、ともに、『私』が友達のことを理解できるということを前提としてきた。それに対して、この前提を覆したのが、ニーチェである。彼はとりわけ、同情を友達への愛として捉えることを批判する。むしろ友情は、友達である二人を超えたものへと二人を導く関係であるべきであり、その理想的な形は、ライバルとの友情である。・・・彼にとって友情はあくまでも成長のための契機に過ぎない、ということでもある。そこではたしかに自律が重んじられている。だが、そうであるがゆえに、友情は二次的・副次的な機能しか演じないのである」。
●シモーヌ・ヴェイユ――見返りのない友情は可能か
「ヴェイユは、ニーチェと同様に、友達が『私』による理解を超えたものであるとしながら、それでも友達を愛することを目指す関係として、『恩寵』としての友情を提示した。ニーチェが友達との理想的な関係をライバルとしたのに対し、彼女の友情論は、そうした敵を許すという点に、理想的な友情を洞察する」。
●シモーヌ・ド・ボーヴォワール――女性の友情とは何か
「ボーヴォワールの友情論の最大の功績は、女性同士の友情に光を当て、その独自性を描き出した点にあるだろう。彼女は、現実の世界で抑圧された女性たちにとって、『もう一つの世界』として形成される居場所として、友情の意義を強調した。友情が自律的な個人の関係と見なされるとき、現実の世界で男性のみが自律性を発揮し、女性からは自律性が奪われている以上、友情は男性的な関係として理解される。それに対して彼女は、互いの苦境を配慮し、その苦しみを共有し合う関係として、友情を説明した」。
●ミッシェル・フーコー ――友情と恋愛の違いは何か
「フーコーは、やはり伝統的な友情観において無視されてきた、同性愛者の友情に光を当てた。私たちは友情と恋愛をあくまでも区別しようとする。友情が自律的な個人の関係だとしたら、恋愛は生殖と結びつき、家族を形成する関係性を作り出す。しかし、このように友情を恋愛から切り離す発想の根底には、生殖力による支配がある。それに対して、彼は『生存の美学』として、他者との関係性を新たに作り上げていく営みとして、友情を再定義した」。
●アラスデア・マッキンタイア――友達に依存するのは悪いことか
「マッキンタイアは、これもやはり伝統的な友情観において無私されてきた、障碍者との友情に注目した。彼は、人間をあくまでも傷つきやすい存在として捉え、自律性を他者からのケアへの依存なしには成り立たないものとして説明した。そして、それが友達の善の『開花』に寄与するものである限り、友達への依存を健全なものとして正当化した」。