榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

昭和天皇が難色を示していたドイツとの軍事同盟を、日本が結んだのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3031)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年8月5日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3031)

ピラニア・ナッテリー(写真1、2)、レッドテールキャットフィッシュ(写真3)、チョウザメ(写真4)、インディアン・モレイ(写真5)、プロトプテルス・エチオピクスのアルビノ(写真6)、ゾウリエビ(写真7)、タカアシガニ(写真8)をカメラに収めました。周辺の農家が育てた野菜の直売店で、ナシウリ(写真9)、シロウリ(写真10)が売られています。我が家の庭師(女房)から、アサガオ(写真11)が咲いたわよ、との報告あり。

閑話休題、『あの戦争になぜ負けたのか』(半藤一利・保阪正康・中西輝政・戸髙一成・福田和也・加藤陽子著、文春新書)で、とりわけ興味深いのは、●ドイツが日本と軍事同盟を組んだ理由、●二・二六事件がその後の陸軍人事に及ぼした影響、●兵士は勇敢に戦ったが、残念ながら司令官は無能・無責任だった――の3つです。

●ドイツが日本と軍事同盟を組んだ理由
「▶加藤=問題は、イギリスへの和平提案を行っていたヒトラーが当初は、軍事同盟に熱心な日本側に冷淡であったことです。よく知られたように、(1940年)7月19日、ヒトラーは国会でイギリスに和平を提唱しますが、22日に拒否されています。その結果もあり、日本に対する態度を留保していたベルリンが、対日交渉に熱心になるのは、8月13日です。▶中西=当初、三国同盟は危ないぞ、話に乗らないほうがいいぞという意識は、日本側にも抜きがたくありました。同盟締結直前の9月7日に、ドイツ外相リッベントロップの特使シュターマーが来日して、松岡洋右外相と会談し、消極派の要人のあいだを駆けずり回って強力に働きかけ話をまとめたのです。逆にいえば、そこまで強烈な対日工作をしないと日本は踏み切れなかったともいえます。▶福田=『昭和天皇独白録』にも『もし<スターマー>が来なかったら日独同盟はもっと締結の時期を遅らせ得たと思う』と書いてありますね。昭和天皇は三国同盟にかなり難色を示していて、昭和14年ごろには、秩父宮が週3回くらい来て同盟締結を勧めるので、喧嘩して突っぱねてしまった、と告白している。いよいよ同盟を締結するときにも『決して満足して賛成した訳ではない』といってますし、松岡外相はアメリカは参戦しないと奏上したけれど、天皇は半信半疑でしたし、独ソ関係についてももっと慎重に確かめたほうがいいと、時の首相近衛文麿に注意をしている。そうとう冷静に国際情勢を見通していますね。▶半藤=昭和天皇は、『ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか』と近衛に念を押しているほどです。▶福田=ドイツの場合、中欧からウクライナあたりを押さえて、東方生存圏をつくるという戦争目的がはっきりあった。これは、第一次世界大戦よりもはるかに限定的な、現実的な目的設定でした。それにくらべると、日本はふわふわした希望的観測の積み重ねで、明確な戦略目標がない。志那事変にけりをつけるなんて、戦争目的とはとても呼べないでしょう。▶戸髙=三国同盟を結べば日米開戦になる可能性が高いのに、アメリカと戦う軍備も資源もないままなんですから、国家戦略なんてないに等しいです。だいたいアメリカから石油を輸入している日本がアメリカと戦争しようという発想自体が非合理ですよ」。 

●二・二六事件がその後の陸軍人事に及ぼした影響
「▶戸髙=陸軍大学出身者が参謀本部を占めるようになりますね。最高のエリートであるはずの陸大出身者が陸軍を背負うようになってから、なぜかえってダメになったのでしょう。過度のエリート意識が人物と組織を壊してゆくような面もあったとは思いますが。▶保阪=東條の次の世代の陸軍軍人には、実は優秀な人材がたくさんいるんです。・・・ところが彼らは指導部に入れない。▶半藤=私は昭和11年の二・二六事件以降、中央の陸軍将官のレベルがガタンと落ちた、と思っています。統制派と皇道派の争いの結果、二・二六事件の首謀側として皇道派の軍人が、中央からはじき出されてしまいました。事件後に残ったのは二流将官ばかりで、明らかに能力的に落ちる人が多い。・・・陸軍のシャッポ、頭がものすごく軽くなってしまった。これは中堅幕僚たちが思う通りに軍を動かせるようになる一つの要因となりました。・・・▶中西=統制派的志向に傾きはじめると、それまでは幅広い能力のある軍人だったのに、戦士としての質が急速に低下しているように思えます。武藤章の世代くらいから途端におかしくなっていく。武藤は志那事変の不拡大を唱える上官の石原に反対し、意図的に拡大にもってゆく。・・・開戦時の作戦部長、田中新一なども、一知半解で政治に首を突っ込む点では同様です。彼らは・・・まず初めは盧溝橋事件後に戦線拡大を推進し、次いで三国同盟や南部仏印進駐のいずれをも強力に推進し、対米戦争へと国策をつねにぐいぐい引っぱっていったわけです」。

●兵士は勇敢に戦ったが、残念ながら司令官は無能・無責任だった
「▶保阪=僕は長年、元兵士たちの声をかなり聞いてきましたが、インパール作戦に参加した人に会うと、みんな数珠を握りしめながら話すんです。インドからビルマへ、仲間たちの死体で埋めつくされた『白骨街道』を引き上げてきた無念の思いでしょう。そして牟田口司令官の名前が出ると、元兵士の誰もがブルブル身を震わせて怒るんです。『牟田口が畳の上で死んだのだけは許せない』とまで言いきります。前線にいたときは知らないけれど、戦後になって、牟田口が前線から離れた『ビルマの軽井沢』と呼ばれる地域で、ひたすら『前進あるのみ』と命令を出していたことを知る。しかも作戦の失敗を、部下の師団長たちに押し付けて。自分は責任を問われぬまま生き延びたんですから。▶中西=しかし、同じ軍隊でも、前線の兵士たちは信じられないほどよく戦いました。・・・▶半藤=ほんとうに、前線の人たちはよく戦っています。ただ、それを論じれば論じるほど、上層部のだらしなさ、無責任ぶりが露出する。・・・▶半藤=前線部隊のひとりひとりの兵隊さんがどんなに勇戦力闘しても、戦術の失敗は補えない。そして、戦術がいかにうまく運用されても、戦略の大失敗は補えない。上層にいけばいくほど、何でこんな国家戦略で戦争しているんだ、ということになる」。

読み応えのある一冊です。