メメント・モリ、死が訪れるその瞬間までは自ら意識して充実した人生を歩め・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3233)】
本日も雨――。桃の節句が近づいてきましたね。
閑話休題、私淑する大澤真幸の『私の先生――出会いから問いが生まれる』(大澤真幸著、青土社)には、大澤に最も大きな影響を与えた師は見田宗介(真木悠介)だと記されています。そして、見田の著作の『気流の鳴る日』について詳しく論じられています。
大澤をそれほどまでに魅了した本を読まずに済ますわけにはいかず、『気流の鳴る音――交響するコミューン』(真木悠介著、ちくま学芸文庫)を手にしました。
本書は、メキシコ北部のインディアン・ヤキ族の老呪術師ドン・ファンに10年ほど弟子入りして、その生き方を学んだ人類学者カルロス・カスタネダの本をテクストとして、真木が読み解き、自身の考えを融合させたユニークな著作です。
ドン・ファンの教えが導く最終的な境地は「心のある道」です。真木は、この境地を松尾芭蕉の『奥の細道』に譬えて、このように説明しています。「芭蕉は松島をめざして旅立つ。『奥の細道』の数々の名句をのこした四十日余の旅ののち松島に着く。しかし松島では一句をも残していない。『窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寐する』一夜を明かすのみで、翌日はもう石巻に発っている。松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は『目的地』に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ」。
ドン・ファンは、「『心のある道』だけが、『老い』を克服することができる。・・・『心のある道』による『老い』の克服とは、若年にもどることではなくて、『美しい道をしずかに歩む』真実の『老い』である」と言っています。
ドン・ファンは、また、「人間は学ぶように運命づけられておるのさ」とも言っています。
大澤は、このように解釈しています。「もし人生の意味が、目的を達成できたかどうかにあるのだとすれば、途中で挫折したり、もくろみ通りにいかなかったりした人生は、虚しく無意味だということになる。それだけではない。人生におけるどんな目的も、さらにのちの目的にとっての手段である。しかし、人生の最後には死が待っているので、どんな人生も最終的な目的には到達しない。意味が目的へと疎外されているとき、どんな人生も虚しい。しかし、人生を『心のある道』として歩むものにとっては違う。芭蕉が、奥の細道を歩みながら、そのときどきの感動を楽しみ、句をつくったように、人生の歩みの過程そのものを充実して歩むことができる」。
ドン・ファン→カスタネダ→真木→大澤の考え方を、無謀にも私なりに一言でまとめると、こういうことになるのではないだろうか。メメント・モリ(自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな)、死が訪れるその瞬間までは自ら意識して充実した人生を歩め。