ピーター・ドラッカーは、常に、アウトサイダーの知識人だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3620)】
カワヅザクラ(写真1~4)、ツバキ(写真5~7)、キンセンカ(写真8)が咲いています。
閑話休題、私たちはピーター・ドラッカーのマネジメント理論はよく知っているが、ドラッカーという人物については何も知らなかったのだということを、『ピーター・ドラッカー ――「マネジメントの父」の実像』(井坂康志著、岩波新書)が教えてくれました。
●ドラッカーの1年半に亘るゼネラル・モーターズ(GM)の内部調査は、GMの名経営者と謳われたアルフレッド・スローンを始めとする経営陣の拒否反応を引き起こした。
●ニューヨーク大学教授時代の21年間に、ドラッカーはマネジメントに関する著作を次々に刊行した。
●1954年の『現代の経営』刊行を機に、日本においてドラッカーは熱烈な崇拝者を獲得していく。1959年の初来日がドラッカー人気に拍車をかけた。時にドラッカー49歳。
●ドラッカーが追い求めたのは、自分の発言の学問的な確かさよりも、現実的な有用性だった。学界での評判などは、彼にとって無意味なばかりか全く価値の転倒だった。
●何をしているかと人に問われると、「変化を見て、書いている」と答えるのがドラッカーの常だった。時代の転換点に立っていることを指摘した1969年の『断絶の時代』は、数多いドラッカーの著作の中で最高峰をなすものの一つと言ってよいだろう。
●ドラッカーは日本美術に限りない愛着を持っていた。
●ドラッカーの日本への眼差しは経済や産業などに止まらず、欧米人が日本に対して差し向けがちな型どおりには捉えずに、生き生きと日本を捉えている。その一つに、実業家・渋澤栄一への言及がある。与えられた権限を利己に用いない良心、社会第一の使命感を高く評価し、成熟したマネジメントの実践像を、彼は渋澤の中に見ている。
●1971年の南カリフォルニアのクレアモント移住後のドラッカーは、それまで蓄積してきたマネジメントの体系化に着手した。時にドラッカー62歳。1973年、『マネジメント――課題、責任、実践』を刊行。
●80歳になっても、ドラッカーは心身ともに健康だった。1997年、『フォーブス』の表紙を87歳のドラッカーが飾り、「いまだ若き頭脳」の見出しがそこに付された。
●ドラッカーのお気に入りの肩書は、社会生態学者だった。
●2005年、ドラッカーは自宅で95歳の生涯を閉じた。老衰だった。
本書のおかげで、「マネジメントの父」というイメージとは異なる、アウトサイダーの知識人とも呼ぶべき実像が見えてきました。「1930年代にナチスの支配するドイツから脱出して、ロンドンを経てアメリカに渡ってきたユダヤ人の亡命者であった彼は、若い頃肌身に感じた不条理に、アメリカ社会の中で、経営的な知識を編み上げることで対抗してきたふしがある」。