豊臣家はなぜ栄え、なぜ滅びたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3980)】
カワセミの雄(写真1、2)、ハクセキレイ(写真3)、ツグミ(写真4)、バン(写真5~8)、オオバン(写真9)、コガモの雄と雌(写真10)、オカヨシガモの雄(写真11~13)、ダイサギ(写真14)、アオサギ(写真15)、コウノトリ(写真16~17)をカメラに収めました。我が家の庭師(女房)から、ニホンズイセン(写真18、19)が咲いているわよ、との報告あり。因みに、本日の歩数は7,184でした。




















閑話休題、『真説 豊臣兄弟とその一族』(呉座勇一著、幻冬舎新書)の著者・呉座勇一の歴史に関する考察は実証的なので、説得力があります。
●織田信長と豊臣秀吉
秀吉は「革命児」信長の事業と政策を引き継いだだけという印象が強いかもしれない。だが、たとえば信長の看板政策である「楽市楽座」(新規参入を拒む座という同業者組合=カルテルを解体し、誰でも自由に商売することを認める規制緩和策)にしても信長段階では不徹底であり、秀吉によって全面的に展開された。近年の歴史学界では、信長はまだ古い時代を引きずった存在であり、秀吉から新時代が始まるという理解が有力である。
●信長と明智光秀
▶天正9(1581)年には信長の側室となっていた光秀の妹「ツマキ」が病死し、信長と光秀との関係は疎遠になった。これにより秀吉と光秀の出世競争は秀吉優位となり、このことが本能寺の変の遠因になったとも言われる。
▶本能寺の変は、光秀の単独犯行と考えるべきである。
●秀吉の性格
秀吉は陽気で明るい人間で人に好かれるという「人たらし」神話が存在するが、秀吉はもともと異常に残虐な人間なのである。
●秀吉の播磨・但馬統治と豊臣秀長の役割
秀長はこの領域で、知行(領地)の割り当て、治安維持、諸役の賦課や免除、さらには鮎漁の特権保証など、多岐にわたる統治を行った。秀長が発給した判物からは、彼が在地の秩序を維持しつつ、秀吉の領国拡大を支える実務能力を発揮していたことがうかがえる。
●秀長の性格
▶天正14(1586)年4月6日付の大友宗麟の国元の家老宛ての書状からは、秀長の性格が垣間見える。宗麟は「宰相殿(秀長)をお頼み申すことが大切だ」と述べており、秀長を全面的に信頼していた。初対面の宗麟の心をここまでつかんでいることから、秀長の温厚で誠実な性格、人付き合いの上手さがうかがわれる。
▶藤堂高虎(もとは秀長の家臣)の伝記『聿脩録』によれば、秀長は温厚謙虚で大人物の風格があり、秀吉が法に基づいて諸大名を処罰しようとすると、常に寛大な心でこれを救おうとしたので、諸大名から頼りにされたという。同書は、秀長の寿命がもう少し長ければ、豊臣政権が滅ぶことはなかったのではないか、と論じている。
●秀長の蓄財と「裏の顔」
秀長は温和で誠実な人柄だったとしばしば評されるが、その裏側には冷酷な一面も存在した。その象徴的な例が、秀長の領国で展開された「ならかし(奈良貸し)」と呼ばれる民衆からの搾取である。強制的な貸し付けである「ならかし」は秀長領国の財政を支える手段として機能する一方で、奈良の町人に大きな負担を強い、社会不安を引き起こした。
▶長実房英俊が記した『多聞院日記』によれば、秀長が亡くなった時、莫大な財産が遺されたという。「ならかし」は、秀長の温厚篤実なイメージの裏に隠された収奪者の顔を浮き彫りにするものである。
●北政所(ねね)と淀殿(茶々)の仲
北政所と淀殿の不仲が強調されてきたが、不仲説は一次資料に基づく検証を欠いており、疑問なしとしない。近年の研究では、秀吉の死後、両者が豊臣家の存続を共通の目的として協力関係を築いていたことが指摘されている。
●豊臣家の滅亡
▶豊臣秀次を中継ぎにして豊臣秀頼成長後に秀頼を天下人にする、という路線を秀吉が採っていたならば、家康に簒奪の隙を与えず、豊臣政権が長続きした可能性がある。少なからぬ成功者が後継者問題で晩節を汚すが、秀吉もまた例外ではなかった。
▶片桐且元の三ヵ条の提案からもうかがえるように、大坂の陣は、豊臣家を臣従させるために徳川家康が起こした戦争である。逆に言えば、豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、豊臣家を無理に滅ぼす必要は家康にはなかったのである。
▶リスクを取って攻めるべき時に臆して踏み出せず、じっと我慢して守るべき時にこらえられなかった豊臣家は、当然のごとく滅んだ。秀吉が朝鮮出兵に気を取られ、後継体制を整える前に亡くなったことを考慮すると、淀殿・秀頼には同情すべき余地はあるが、結果責任は免れない。天下に覇を唱えた豊臣家は、大坂の陣での奮戦という最後の光芒を放って、歴史から姿を消したのである。
