榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

細川佳代子の熱烈なファンになってしまった私・・・【情熱的読書人間のないしょ話(32)】

【amazon 『花も花なれ、人も人なれ』 カスタマーレビュー 2014年11月10日】 情熱的読書人間のないしょ話(32)

友人に誘われ、真鶴漁港近くで海鮮料理に舌鼓を打ちました。一泊した湯河原の彼の別荘では温泉に5回も浸かりました。源泉掛け流しの別天地で、命の洗濯ができました。別荘から数十メートルの所に、我が敬愛する細川護熙の私邸「不東庵」があるというので、連れていってもらいました。「不東庵」の額が掲げられた静かな佇まいの門を写真に収めることができ、大感激。

私にとっての理想像、それは細川護煕です。細川の出自が高く、代々の世襲財産があり、知事や首相を務めたから、理想像なのではありません。彼の政界引退後の晴耕雨読の生き方が実に素晴らしいのです。細川の生き方には、彼自身のぶれのない考え方がバックボーンとして貫かれています。彼の『不東庵日常』(細川護熙著、小学館)を初め、これまで彼の著作はいろいろ読んできましたが、なぜか、そのいずれにも妻は姿を現しません。

そこで、『花も花なれ、人も人なれ――ボランティアの私』(細川佳代子著、角川書店)を手にしたのですが、驚くことが書かれているではありませんか。

第1は、細川佳代子という女性は淑やかな上流婦人だろうとの私の思い込みが木っ端微塵に打ち砕かれたことです。
●私が老成した子どもだったわけではない。私はいつも楽しいことをみつけるのが得意だった。中学のときに、養老院、今でいう高齢者介護施設にたくさんの身寄りのいないお年寄りが一緒に暮らしていると聞いて、「じゃ、なんか楽しいことをしに行こう」とみんなに声をかけてでかけた。「喜んでもらえることをしに行こう」というのがまずある。
●逆巻く大波の下へ、下へと何度も潜りながら沖にでられるほど泳ぎが達者で、肺活量もある女の子はなかなかおらず、波乗り仲間で女は私ひとりだった。
●(仕事で訪れたロシアのホテルで)船や列車の長旅だったので久し振りに洗濯ができた。干す場所がないので天井からつり下がっている立派なシャンデリアをお借りして下着をひっかけた。帰り際、忘れ物がないかチェックしたがうっかり見上げるのを忘れたため、その下着はその後どうなっただろうと思うことが今でもある。
●(仕事で訪れたスウェーデンで)トラックを運転したのは私だった。国際免許証なしの運転だった。一度検問にひっかかったが、もっていた免許証は日本語だったので、警察官は読めない。写真も私の顔なのでOK。

第2は、彼女の長年に亘るボランティア活動が、ポーズなどではなく、心からのものであることを知り、感動しました。ボランティアに関する数々のエピソードが紹介されている中盤から終盤にかけては、何度も涙が溢れてきて、読み進めるのに苦労しました。
●私のボランティア活動の精神的基盤になったのは、まず家庭の環境であり、次に白百合や上智大学での宗教教育だったと思う。神父様や、修道女様たちの、私物を持たず、故郷をすてて、異国の地で一生を神につかえ人に奉仕する崇高な生き方に心から感動した。・・・高田(好胤)先生とお会いしたときも宗教の中身などわかってはいないので、結局はその人間性に惹かれたのだった。
●細川があらたな情熱を地方自治に傾けている一方で、私は「アフリカへ毛布を送る会」や、中国残留孤児養父母への「ありがとう基金」など、さまざまなボランティア活動に関わることになった。
●ボランティア活動というのは、いつでもどこでも、自主的に、気軽に、しかも楽しくできることが大切だと思う。楽しくやらなければ、自分の心も豊かになれないし続かないからだ。
●そのとき、身体障害者のパラリンピックとは別に、知的障害者が参加するスペシャルオリンピックス(SO)があることを初めて知った。・・・ミッション、パッション、アクションの私のボランティア活動に一挙に「ヴィジョン」が広がったのだった。
●いよいよ8日間にわたるアジアで初の「スペシャルオリンピックス冬季世界大会・長野」の開幕だ。94年に国内の本部組織「スペシャルオリンピックス日本」を立ち上げてから12年目。夢にみていた日本での開催だった。ダウン症の若者たち80人からなるダンスユニット、「LOVE JUNX(ラブジャンクス)」がパワフルにダンスを披露して会場を沸かせた。予選は開会式の日から始まった。
●スペシャルオリンピックス日本が設立されたのは1994年の11月だったが、実はその年の1月に、もう一つの活動が産声をあげていた。発展途上国の子どもたちにワクチンを届ける運動である。・・・こうして集めたお金で、JCVはユニセフから原価でワクチンを買う。それを、ユニセフの機関を通して現地に運んでもらう。現在は、ミャンマー、ラオス、ブータンに届けている。届いたワクチンが確かに子どもたちに使われているか、それを確認するために私は13年間ミャンマーに通い続け、病院や学校、小さな村の保健所を視察してまわった。
●私は、SOの活動を通して知的発達障害のある人たちと接し、どれだけ多くのことを彼らから学んできただろう。初めは、なんて神様は不平等かと思っていた。神様がなにか手抜きして失敗したのではないかと思っていた。でも、知的発達障害のある人たちの純粋な魂に触れて、それとは違う自分にいつも気づかされた。・・・知的障害のある人たちは、精一杯に生きている。人間には一人ひとり役割があることを、彼らは私に教えてくれた。・・・自分が暮らしている社会のなかで、偏見や誤解のために生きづらい人たちに、ちょっと手を差し伸べる。発展途上国で生死の境にある子どもたちの、少しでも支えになれたらと行動する。一人ひとりの違いを受容し、包み込んでいく。そんな社会をめざしたい。

第3は、著者と細川護熙とのロマンスや、政治家の妻としての苦労が率直に語られていることに驚きました。
●(上智大学の)ゴルフ部の男子部先輩に細川(護煕)がいた。・・・細川という名前を聞いても、おじさんのような風貌をした彼と歴史上の大名夫人(細川ガラシャ)とはまったく結びつかなかった。彼はキャプテンだったが、ほとんど練習には現れなかったので、ほかの男子先輩のようにゴルフの指導をしてもらった記憶は全くない。
●一年生の夏休みが終わるころ、突然、彼から「鎌倉でちょっと会いませんか」と誘いを受けた。・・・他愛もないことを聞くだけで特に会話がはずむわけでもない。うんざりしてしまった私は、・・・「これからまだたくさんのお友達とおつきあいをしたいから、one of themとしてならいいですけれど、特定のおつきあいをするのは嫌です」と答えた。
●彼が朝日新聞に入社して鹿児島支局に赴任する数日前に、・・・彼は突然プロポーズしてきた。・・・答えをだしたのはそれから7年後、ローマで偶然二人が再会したときだった。
●パリやローマに飛んで映画(買い付け)の仕事がだんだんおもしろくなってきたときに、バッタリ、ローマで(細川護熙に)会っちゃったのが運の尽き。
●そのあとロンドンにきた彼からふたたびプロポーズされた。・・・7年前は、細川はとにかくジジ臭くて、「もう嫌だ、こんな人」と思っていたが、私も20歳だった。細川も、学生時代は暗~くて、くそ真面目。明るさがみじんも感じられなかった。・・・しかし、そのときの細川は(選挙で落選し、借金だらけの失業・浪人生活という)四面楚歌で、「この人、すごいどん底にいるんだなぁ」と、ちょっと助けたくなった。細川は高校生のとき、ソ連軍に捕らわれたままシベリアに抑留されていたおじ(近衛文麿の長男文隆)が故郷の土を再び踏むことなく亡くなり、このおじの遺志を継ごうと政治家を志した。それにはまず新聞記者になるべきだと思ったが、それすら父から「そんなヤクザみたいなものは許さない」と猛反対されていたのに、「政治の世界に入る」と言うと、ついに勘当されてしまった。単身オンボロ車に身の廻りの荷物を積み込み、政治活動の地、熊本に行ったが住む家はなかったので、簡易旅館を転々としていたという。・・・私の前に再び現れた細川は、もはや「ジジ臭いおじさん」ではなかった。苦労しながらも、自分の意志を貫こうと闘っている一人の青年だった。
●細川護煕にはお金がない。政治の世界を選んで以来、勘当の身である。家からの支援はまったくない。前回の選挙もお金がなくて落選したのだから・・・。
●細川は家柄や格式を気にしなかった。私自身、そうした格式のある家に嫁ぐことに対して、すこしも畏れをいだかなかった。「自分自身をしっかりもって謙虚であれば、なにも畏れるものはない。ありのままでよい」という信念があった。
●1971年6月、全国区最年少で細川が33歳で参議院に初当選したあと、9月9日に二人だけで式を挙げた。・・・いつ壊れ落ちてもおかしくないような家を見てびっくりしたが、結局その家が、子どもたちが生まれ、細川が二期目に熊本地方区から参議院に出馬するときに、私たちの住みかになった。
●そういえば(細川護熙は)若い頃から、いつまでも政治家をするつもりはないとよく言っていた。しかし一度政治家になると、自分からはなかなか辞められない、もしくは辞めさせないのが世の習いと言っていたので、細川はどうするのか興味深く眺めていた。ところがほんとうに突然政治家辞職を発表した。彼としてみれば計画通りであっただろうけれど私はいささか狼狽した。妻として一番心配だったのは、「これから生活どうしよう」ということだった。それで細川が国会議員を辞めたときにまず聞いたことは、「政治家って失業保険があるの?」だった。

第4は、著者がボランティア活動や選挙運動で直面したさまざまな困難をいかに乗り越えてきたかの具体的な記述が大変勉強になりました。彼女はアイディアが豊富、工夫上手で実行力抜群なだけでなく、大局観を備えた天性の戦略・戦術家なのです。
●私には何かやろうとひとたび決めると、どんな壁にぶつかっても、「人頼みしない」という癖がついていた。考えれば必ず何か解決方法が見つかる。それがベストの方法でなくても必ず実行する。それが私のスタイルだった。
●私は自分でも想像できないような困難にぶつかったときは、絶対に精一杯挑戦する。こうだからできなかったという言い訳はしたくはない。大きな波がくれば、「そーれ」とボードに飛び乗るサーファー根性が下地にある。
●(ボランティアで)何かを始めるときには、誰もが協力しやすい下地はつくってあげなくてはいけない。ただ、「これはいいことですから、やってください」といっても、そういう動きに慣れていない人は何をどうしたらよいかわからない。気持ちはあっても行動につながらない。・・・「どうしたらみんなが協力しやすい状況になるか」を考えて、「ああ、そうか。ここを押さえればうまくいくな」と思ったらすぐ交渉にいく。そういったアイデアと行動が必要だ。このような方法で、「りぶるの会」は半年で8千枚の毛布を集めたのだった。
●私は、いろんな付加価値のある権利を考えた。(チャリティーオークションに)品物を提供してくださった方への配慮からだ。大変高価な品でも半値以下で落とされてしまうと、提供者に申し訳ない。そこで値のつかないものを提供することに知恵を絞っている。08年は有森裕子さんと一緒に走り食事をする権利。北海道でディープインパクトににんじんを食べさせる権利。荒川静香さんのアイスショーを見て一緒に食事をする権利。私が提供したのは細川の湯河原の工房「不東庵」を見て、そこの茶室でお茶を飲む権利。運転手兼ガイドは細川佳代子で、築城4百年の熊本城見学と細川の私邸で細川幽斎の献立を再現した古料理を食べる権利。

本書を読み終わった時、私は、細川護熙+細川佳代子の熱烈なファンになっていました。