榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本史の論点が、各時代の専門家によって解説されている興味深い一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1546)】

【amazon 『日本史の論点』 カスタマーレビュー 2019年7月12日】 情熱的読書人間のないしょ話(1546)

フクシア・エンジェルス・イヤリングの赤い花弁のように見えるのは萼で、紫色のが花です。フロックス・パニキュラータ(宿根フロックス、クサキョウチクトウ)が赤紫色、桃色、白色の花を、ユウチャリス・グランディフロラ(アマゾンユリ、ギボウシズイセン)が白い花を咲かせています。カサブランカという品種のユリの白い花が芳香を放っています。我が家のマンリョウの白い花が雨に濡れています。因みに、本日の歩数は10,140でした。

閑話休題、『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書編集部編、中公新書)では、古代、中世、近世、近代、現代の29の論点が、各時代の専門家によって解説されています。

例えば、倉本一宏担当の古代の、「邪馬台国はどこにあったのか」では、興味深い指摘がなされています。「魏に朝貢したのが北部九州の倭国連合(邪馬台国を盟主とする連合体)で、それとは別個の権力体が呉に朝貢していた可能性も存在する。それはその頃すでに畿内に成立していた倭王権と考えたい。・・・(邪馬台国は)環濠集落と考えられ、運河で全国各地や朝鮮・中国に対しても開かれていた纏向遺跡とはまったく性格が異なる。そもそも、纏向遺跡が邪馬台国だとすると、この巨大遺跡が3世紀になって突然出現した意味が解けない。それまで卑弥呼たちが別の場所に居住し、集団で纏向に移住したと考えるのは無理がある。・・・『魏志倭人伝』は、邪馬台国は伊都国の少し南に所在すると認識していたのである。・・・(『南』に『水行十日、陸行一月』という)里程記事を素直に読むかぎりでは帯方郡から邪馬台国までの旅程と考えればよく、筑紫平野で問題はないだろう。つまり、日本列島各地に多様な政治勢力が存在し、大和盆地には纏向を王宮とし、日本列島の中心的な権力である倭王権、北部九州には邪馬台国を盟主とする地方政権の倭国連合が併存していた。倭国連合の中心が伊都国、宗教的な聖地が邪馬台国であって、その宗教的な権威が卑弥呼だったと考えたい」。

今谷明担当の中世では、「元寇勝利の理由は神風なのか」が検討されています。「文永の役において、嵐とは関係なく蒙古軍は自発的に撤退した。弘安の役では確かに台風が襲来し、蒙古の艦隊は甚大な被害をこうむったが、日本側の防衛が固く、たとえ台風が吹かなかったとしても上陸は困難で、いずれ撤退を余儀なくされたと考えられる。二度とも日本側は善戦したのであって、特に弘安の役に先立っては防御態勢が確立されていた。戦後の日本の歴史家の蒙古襲来に対する評価は、蒙古側の内部の問題を強調するところでは一致しているけれども、日本側の防御や善戦ぶりを概して低く見ている」。

大石学担当の近世の、「江戸は『大きな政府』か、『小さな政府か』か」では、田沼意次vs松平信綱にスポットライトが当てられています。「8代将軍(徳川)吉宗の享保改革を通して『大きな政府』の政策が続くが、10代将軍(徳川)家治に取り立てられて老中となった田沼意次が、再び『小さな政府』へと舵を切る。賄賂まみれの金権政治と批判されるが、田沼時代(1767~86年)の政策によって経済は活性化した。具体的には、広く同業者組合に販売権を与え冥加金・上納金を納めさせる『株仲間』結成の奨励、新貨幣の鋳造、鉱山開発などを手掛けている。また、蘭学を保護し、海外文化を積極的に輸入した。蘭学者の杉田玄白と前野良沢は、『解体新書』(1774年)を完成させ、彼らの弟子の大槻玄沢は蘭学塾を開いている。・・・将軍家治が死去し、田沼が失脚すると、(譜代派大名の松平定信が)1787年に老中として『大きな政府』を目ざす寛政改革を断行した。・・・江戸時代、『小さな政府』と『大きな政府』が交互に試みられていることは見逃せない」。

清水唯一朗担当の近代の、「明治維新は革命だったのか」では、独断専行と思われている井伊直弼について、意外なことが記されています。「井伊直弼は保守的かつ権力的で、事態打開のために朝廷の勅許を得ぬままに開国に踏み切った強権的なイメージが強い。しかし、近年の研究では、井伊は最後まで通商条約の締結に慎重な姿勢を持っていながら、交渉の場でやむを得ない場合は調印も認めると交渉役に裁量を与えていた。井伊自身は締結を望んではいなかった。むしろ、開国へと交渉を導いたのは、幕閣に形成されつつあった、国際関係を解する若手現実派の幕臣、すなわち昌平黌エリートたちであった。・・・(岩瀬忠震や戸田氏栄らは)外交交渉という高い専門性を要する政治空間のなかで、なかばクーデター的に交渉を推し進めていった。それは彼らの持っていた専門性や新知識が伝統的な権威と権力を凌駕していく過程であった。この変革は、明治維新にいたる体制変動の革命的な側面につながるものといえるだろう」。

歴史好きには、見逃せない一冊です。