榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

豊臣秀吉の正室・寧々は、側室・淀殿をどう見ていたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1832)】

【amazon 『司馬遼太郎短篇全集(第10巻)』 カスタマーレビー 2020年4月19日】 情熱的読書人間のないしょ話(1832)

カエルの幼生(オタマジャクシ)がたくさん泳いでいます。白いフジが芳香を放っています。さまざまな色合いのキンギョソウが咲き競っています。「きんぎょーえー、きんぎょー」という、子供時代に耳にした金魚売りの懐かしい売り声が聞こえてきそうです。我が家のハナミズキも頑張っています。因みに、本日の歩数は11,040でした。

閑話休題、『司馬遼太郎短篇全集(第10巻)』(司馬遼太郎著、文藝春秋)に収められている「北ノ政所――豊臣家の人々 第四話」には、豊臣秀吉の正室・寧々(ねね。禰々、北ノ政所)について興味深いことが書かれています。

「彼女(寧々)の奇蹟は、その栄達よりもむしろ、そのことによっていささかもその人柄がくずれなかったことであった。彼女は従一位になってもいっさい京言葉や御所言葉をつかわず、どの場合でも早口の尾張弁で通した。日常、秀吉に対しても、同様であった。藤吉郎の嬶どのといったむかしむかしの地肌にすこしも変りがなく、気に入らぬことがあると人前でも賑やかな口喧嘩を演じたし、また侍女を相手につねに高笑いに笑い、夜ばなしのときなどむかしの貧窮時代のことをあけすけに語ってはみなを笑わせた。さらに前田利家の妻のお松などは岐阜城下の織田家の侍屋敷で隣り同士のつきあいをしていたが、その当時の『木槿垣ひとえの垣根ごし』の立ちばなしをしていた寧々の態度は、お松に対してすこしも変らない。『またとない御方である』と、お松などはしばしばいった。『北ノ政所さまは、太閤さま以上であるかもしれない』。お松はかねがね、その嫡子の利長、次男利政にいった。・・・寧々のもつこの気さくさと聡明さこそ彼女の人気をつくり、それが豊臣大名のなかで隠然たる政治勢力をつくりあげていたということになるであろう。もっとも、寧々のもつ威福は、寧々単独のものでもない。秀吉の寧々に対する過剰なほどの愛情演技と尊敬が、世間に投影していた」。

「彼女はなににもまして健康で、平素食欲が旺盛で、さなきだに肥り肉をもてあましている」。

「寧々は、行儀のいいほうではなく、話をききながら何度も立膝の足を変えたり、変えるときに裾の奥までみせてしまったり、頬を搔いたり、痰を切ったり、じっとしていることができない。少女期に躾をされることがなかったためというより、天性闊達なたちで、自分を作法上手の鋳型にはめてしまうことができないのであろう。その寧々が、淀殿のうわさについて、からだを凝然と静止させてしまったことがある。・・・淀殿は、そのひざもとに近江人を集めているという。近江系の大名を、である。・・・いまでは豊臣家の殿中は、近江人によって壟断されてしまっていた。寧々が目にかけてやっている尾張育ちの諸大名たちは、中央に対してなんの発言権もなくなっている。豊臣家はすでに北ノ政所が中心ではなく、淀殿に移りつつあった。・・・この寵姫(淀殿)の蔭口をいかに多く耳にしても、寧々の目はこの点では冷えていた。淀殿というのはそのきわだった美貌を措いてはどこからみても凡庸な資質の女性であり、単に女であるにすぎない。多少の権勢欲があるかもしれないが、しかしかといって自分から進んで政治勢力をつくりあげることができるほどの能力はない。もしわるいとすれば、彼女のまわりの旧浅井家からきた老女たちであった。この連中が、淀殿が鶴松の『お袋さま』になったのを機に正室の北ノ政所に対抗しようとし、石田三成をはじめとする豊臣家の官僚団に積極的にむすびつき、一方、三成らも淀殿を擁することによって秀吉死後もさらに豊臣家の中核にすわりつづけようとしている。そのいわば側の者が淀殿を政治的存在に仕立ててゆこうとしているのにちがいない。寧々はそうみている。寧々からみればわるいのはかれらであった。寧々は、しんの底からかれらを好まない」。

「寧々は、単純ながら勁烈に事態の本質を理解していた。寧々のみるところ、三成は寧々を保護者とする尾張系の武将たちを罪におとすことによって寧々の羽翼を断ち、淀殿母子の権勢をもりたててゆこうとしているのであろう」。

「家康は秀吉の死の瞬間から、秀頼の政権を横うばいにうばいとることを思案し、それのみを考え、慎重に、しかし機敏に行動した。家康はこの豊臣家の分裂騒ぎを観察し、徹頭徹尾、尾張系の諸侯団を懐柔してその上に乗ることによってゆくゆく石田党をつぶし、淀殿・秀頼母子を追いのけることをひそかな方針にした。・・・家康は、北ノ政所の心をつかみこれをひき寄せておかねば、豊臣家での工作は万事しにくい。・・・三成の一派とかれらの擁する淀殿とその老女たちに豊臣家を渡してしまうなどは、寧々の感情の堪えられるところではない。嫉妬ではなく、秀吉をたすけてこの家をつくりあげたのは寧々であり、かれらではない。かつ、かれら一派が勝てば、寧々が庇護してきた清正らはほろびざるをえない」。

「寧々が(家康が造ってくれた高台寺で)尼僧として暮らすうち、慶長20(元和元)年大坂城が落ち、淀殿母子が死んだ。その後なおも彼女の寿命がつづいた。江戸幕府も三代将軍家光の代になった寛永元(1624)年9月6日、76歳で没している」。

寧々の本質が、司馬遼太郎の筆によって、生き生きと描き出されています。