ショパンの身体は、どんな匂いがしたのだろう・・・【山椒読書論(448)】
『ショパンを嗜む――CHOPIN』(平野啓一郎著、音楽之友社)には、フレデリック・ショパンをこよなく愛する平野啓一郎の熱い思いが籠もっている。
「ショパンは、どんなにおいだった?」の章は、とりわけ興味深い。「1900年になっても、パリで浴室を備えていたのは、家賃の高い極一部の家だけだったという、その当時の人の証言を紹介している。ショパンの時代にあったのは、風呂の出張サーヴィスである。お金持ちの間では、入浴の習慣が徐々にではあるが広まりつつあって、それでも、多くて月に一回、地方などでは一生に一度も風呂に入らない人がたくさんいた」と、風呂好きの日本人には信じられないことが記されている。
ショパンの親友であったウジェーヌ・ドラクロワは、その日記の中に、数カ月に一度といった頻度で「今日は風呂に入った」と書き残している。比較的風呂好きの部類に入るドラクロワにして、こうなのだ。
さて、ショパンはどうだったのだろう。夏は避暑のためジョルジュ・サンドのノアンの別荘で共に過ごしていたが、「二人が破局する前年の1846年の夏は、記録的な猛暑だった。その年ショパンは、とにかく、暑い暑いと言って、毎日、水浴びをしていたらしく、一方で、田舎育ちのサンドは、夜になってから川に水浴びに行っていた。二人のライフスタイルの違いが見えてくる話だ。この時のサンドの記録によると、ショパンはにおいを非常に気にしていて、水浴びをしては体にオー・ド・コロンをふっていたそうだが、実はこのオー・ド・コロンというのがミソである。・・・ご婦人たちの愛用品であるオー・ド・コロンを使っていたのではないだろうか? コンサート嫌いだったショパンの収入源は、サロン回りと、楽譜の出版契約金、それに、貴族やブルジョワの娘たちのレッスン代だった。ショパンの手が美しかったという記録は、音楽の印象も手伝ってか、幾つか残されているが、レッスンでの実演で、『無臭』のお金持ちの女性たちに、じっと手を見られる機会が多かった彼は、恐らく清潔に気をつかっていただろう。また、指導の際にも、体の距離は近かったはずだから、洒落者の彼が、自分の体から、ぷんとイヤなにおいが発するようなことに鈍感だったとはとても思えない」。
6歳年上のサンドとの9年間に亘る恋愛生活の経緯が、本書のあちこちに顔を出す。「(サンドとの)初対面当時は、とにかく印象が悪かったようで、珍しく酷い悪口も残している。翌年の春に、ノアンの館に招待された時も無視しているが、そのサンドと(18)38年に再会した時には、丁度、マリアとの破局直後だったとはいえ、熱烈な恋に落ちるのだから、人間というのはふしぎなものである」。
「サンドとつきあい始めてから、ショパンは、冬の社交界の季節はパリのサロンを回り、夏になると避暑のためにノアンの彼女の別荘で過ごすという生活のパターンを繰り返していた。ノアンでは、都会の喧騒を逃れて作曲に集中できたようで、今も我々が愛している数々の傑作が書かれている」。
9年間の交際の果てに二人が別れを迎えたのは、1847年7月のことである。「ショパンは想像以上に打撃を受けたようで、その後、半年ほど立ち直れなかった。この年彼は、前年から手がけていた作品64の『三つのワルツ』以外、曲を書いていない。例年なら、夏はノアンに行って作曲に専念するはずだったが、それも叶わず、病気もさることながら、精神的にも難しい状況だったのだろう」。
「サンドは、社会主義的な思想の持ち主で、二月革命の際には、新しい共和国政府を支持して旺盛に執筆し、後にはその筆禍のためにノアンに隠棲することになる。それが、ショパンの葬儀に参列しなかった理由の一つだった」。これで、サンドが39歳で世を去ったショパンの葬儀に出席しなかった事情が分かったぞ。
「ショパンとサンドの別れの理由は、彼女の二人の連れ子の不仲という極私的な問題に端を発していたことは、小説『葬送』に詳しく書いた。長男モーリスを溺愛するサンドと、それに反発する妹のソランジュに頼られていたショパンという構図である。――が、その交際範囲ということでいえば、ドラクロワのような共通の友人がいる一方で、サンドはショパンの知る政府関係者たちに良い感情を持っていなかっただろうし、ショパンはショパンで、彼女の政治活動についてはノータッチだった。ショパンは、フランスの政治については、まったく無関心だったが、二月革命は、二人の別れを追認するかのように、そうした政治上の立ち位置の違いを、改めて浮き彫りにさせることとなった」。ショパンとサンドの別れの背景は、内外の諸書でいろいろ論じられているが、この平野の分析が一番説得力がある。
嬉しいことに、巻末に「ショパンにまつわる人々」の肖像画が収載されている。恋愛関係が4人、友人関係が9人、弟子が3人、恩師その他が4人の計20人である。それにしても、ショパンから例外的に2曲も献呈された、友人のデルフィーナ・ポトツカ伯爵夫人の美しさには息を呑む。