榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

司馬遼太郎が生き生きと甦ってくる一冊・・・【山椒読書論(489)】

【amazon 『余談ばっかり』 カスタマーレビュー 2014年9月23日】 山椒読書論(489)

余談ばっかり――司馬遼太郎作品の周辺から』(和田宏著、文春文庫)は、30年に亘り、司馬遼太郎の担当編集者を務めた和田宏のエッセイ集である。

「小説界に新風を吹き込んだ『竜馬がゆく』の登場」には、「歴史上の坂本龍馬の史実を曲げずに、創作の羽を存分に広げて、爽快な竜馬像を司馬さんは作り上げた。作者自身、『龍馬の研究』のほうは適任者に任せて、自分は『竜馬の小説』を書くんだと割り切って、架空の人物や挿話を大胆に盛り込み、楽しませてくれる。だが一方で、この小説には歴史書では味わえない幕末史の実相がふんだんに書き込まれている。・・・厖大な史料を読み込んだ成果であろう。日頃めったに自慢しない司馬さんが、めずらしく『幕末については学者にだって負けないと思う』といったことがある。つまりこの作品は闊達な想像力と綿密な事実発掘の二重構造になっている」とある。司馬の一面が窺えて、微笑ましい。

「司馬さんの書く新聞小説はいつも長くなった」には、こんな一節がある。「司馬さんはどういう場合でもどんどん書かなくては気がすまないのであった。『坂の上の雲』を書きながら、並行して『世に棲む日日』『城塞』『花神』『覇王の家』ほかを書いていた人なのである。どうみても量産が利かない純文学の高名な短篇作家について、司馬さんが『あの人はどうしてもっとたくさん書かないのだろう』と本気でふしぎがるのを、筆者は聞いたことがある」。質量ともに群を抜いていた現代作家は、司馬、松本清張、辻邦生だと、私は確信している。

「身上に余る軍隊を持ち続けた日本」では、司馬の戦争観が垣間見える。「日露戦争を最後に戦争の形態が変わった。飛行機が飛び戦車(タンク)が走る時代に入ってゆく。つまりエネルギー源が石炭から石油になった。それが10年後に第一次世界大戦というそれまでだれも考えなかった大惨禍を起こす。司馬さんは『石油の時代になったところで、その資源を持たない日本は軍備を縮小し、自国の防衛のみに徹するべきだった』という」。「戦争ができる国」を目指して、我武者羅に突っ走る、我が国の現在の首脳陣に読ませたい一節だ。

「『明治』は江戸の手柄 『昭和』は明治のしくじり」を読んで、目から鱗が落ちた。「維新から日露戦争までの、何とか近代化して西欧列強に伍したいと願い、まずまずの成功をおさめた『栄光の明治』を推進したのは、江戸時代人なのである。秋山真之ら中枢から一兵卒までは明治生まれだが、指導層は江戸期に生まれ、青年期まで旧態依然の『古い』教育を受けた人たちなのだった。ちなみに伊藤博文は維新時には28歳、大山巌27歳。その江戸人の退場とともに、政治腐敗とテロリズムの『日本史上、不連続で異質の20年』と司馬さんが嘆く昭和に移行する。結局は世界中を敵にまわし、この国を奈落に沈めた。その昭和日本を牽引したのは明治人、明治時代が産んで、教育した人たちであった。ちなみに東条英機は明治17年生。司馬さんたち大正人は、昭和前期に成人し、明治人の被害を一番受けた世代なのである。つまりもっとも多数の戦死者を出した世代であった。さぞかし明治人に対しては屈折した思いがあったのではなかったか」。この明治時代の成功は江戸人のおかげであり、一方、昭和時代の失敗は明治人のせいだという視点は、私にとって新鮮であった。

「江戸が大都市になるとは家康の想定外だった」では、生涯、大阪に住み続けた司馬の反骨精神が仄めいている。「司馬さんは終生、仕事相手の出版社が集中している『江戸』に住まず、『大坂』に居を構えた。いまはファックスという便利なものがあるが、それが普及するまで地方在住の作家は原稿の締め切りが早く、不便であった。基本的には原稿を郵送しなければならなかったのだから。・・・ただ、司馬さんの場合、原稿には推敲のあとが多すぎ、多種の色鉛筆で吹き出しだらけの色彩豊かな原稿だから、ファックスの恩恵には与れない。『江戸の版元』勤めだった筆者の知る限り、司馬さんの原稿は一度もファックスで送られてきたことがなかった」。

「小説を書かなくなった晩年の司馬さん」によって、晩年の司馬の心鏡を知ることができる。「題材豊富な司馬さんなのに、60歳前後から次第に小説から離れ、評論活動に移ってゆく。考えていることを言い残しておきたい、そのためには手っ取り早く直截に語りたい。なぜか知らないが、自らの寿命を悟ったみたいに、生きいそぐような発言もある。司馬さんはお話作りの名人であると同時に、歴史の本質を探り出し、だれをも唸らせる達人であった。ところが、次第に『小説が理屈っぽくなった、年取ったなあ』と洩らすようになった。読者に喜んでもらうには、まず自分の心が弾まなくてはなるまい。なのに書いていてつい『講釈』のほうに重心が移るようになってきたという」。

司馬遼太郎が生き生きと甦ってくる一冊である。