写楽の正体とは、そして、なぜ忽然と消えたのか・・・【続・独りよがりの読書論(8)】
東洲斎写楽と名乗る浮世絵師が、寛政6(1794)年5月に彗星のごとく現れ、翌7年2月までの僅か10カ月間(寛政6年には閏月があった)にとびきり個性的な約140点の役者絵と数点の相撲絵を残し、それきり忽然と姿を消してしまった。
写楽とは、いったい誰なのか。我が国で最も人気のあるこの正体探しが賑やかに繰り広げられ、葛飾北斎だ、いや円山応挙だ、谷文晁、歌川豊国、酒井抱一、司馬紅漢、蔦屋重三郎、十返舎一九だと、名を挙げられた者は数十人に上ったのである。
この正体問題に説得力のある結論を出したのが、写楽研究者の内田千鶴子である。『写楽を追え――天才絵師はなぜ消えたのか』(内田千鶴子著、イースト・プレス)の著者が、長年に亘る緻密な研究の結果、写楽は阿波藩(現在の徳島県)お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛と突き止めたのであるが、この地道かつ執拗な研究には本当に頭が下がる。この説は今や研究者たちの間で定説として認められている。さまざまな難関を乗り越え、「写楽=斎藤十郎兵衛説」を鮮やかに証明していく過程は、正に推理小説のようにスリリングで興味深い。
反対派の研究者たちから斎藤十郎兵衛の実在は疑わしいと反論された時期があったが、徳島「写楽の会」メンバーの斎藤十郎兵衛の菩提寺と過去帳の発見によって、実在が完璧に証明されることになった。「写楽の会」メンバーが、1997年、江戸期には築地にあった法光寺という寺が現在は埼玉県越谷に移転していることを突き止め、その寺の調査から過去帳に斎藤十郎兵衛の没年月日を発見し、報告した。没年は「辰(文政3<1820>年)3月7日」、死亡年齢は「58歳」、俗称等は「八丁堀地蔵橋 阿州殿内 斎藤十郎兵衛事」であった。これによって没年が初めて明らかにされたのである。
斎藤十郎兵衛は、阿波藩お抱えの能役者でありながら、なぜ10カ月も江戸の芝居小屋に入り浸って、役者に生き写しの、役者の欠点を強調するかのような毒を秘めた強烈な絵を大量に描くことができたのか。彼は江戸藩邸勤めのため八丁堀地蔵橋(現在の中央区日本橋茅場町)に住んでおり、大名お抱えの能役者の勤めは当番と非番が半年か1年交替のため、その非番期間を利用して絵を描くことが可能だったのである(この時、写楽33歳)。
なぜ写楽が斎藤十郎兵衛であることが秘密にされたのか。大名お抱えの能役者という下級武士であろうと武士に変わりはないため、当時、その実名と身分を明らかにすることは憚られたのである。
正体と並ぶもう一つの謎は、なぜ写楽は忽然と消えてしまったのかということである。著者は、写楽の才能を発掘し写楽の大胆な絵に社運を懸けた版元(出版業)・蔦屋重三郎と写楽の連合軍が、ライヴァルの版元・和泉屋市兵衛と浮世絵師・歌川豊国の連合軍との壮絶な戦いで、最初のうちは圧倒的な勝ちを収めたものの、短期間のあまりの大量制作が祟って写楽の絵の質が落ち遂に敗北を喫したためと考えている。写楽作品は浮世絵師である写楽とプロデューサーとしての重三郎の共同作業から創り出されたと言っても過言ではなく、2人は文字どおり運命共同体だったのである。
写楽が消えた理由が著者の言うとおりか否かは、巻頭の写楽の役者絵(カラー)の「松本米三郎のけはい坂の少将、実はしのぶ」、「市川鰕蔵の竹村定之進」、「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」といった力作の数々と、巻末付録「東洲斎写楽と歌川豊国、宿命の対決――二人の絵師は同じ舞台をどう描き分けたのか」(カラー)をじっくりと検分した上で、私たち読者自身が判断すべきだろう。
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写楽のみならず、大田南畝、山東京伝、喜多川歌麿、十返舎一九、滝沢馬琴など江戸芸術界の優れた才能ある者たちを援助し、彼らに発表の舞台を与えた名プロデューサー・蔦屋重三郎というのは、実に魅力的な、強く惹き付けられる人物である。『蔦屋重三郎――江戸芸術の演出者』(松木寛著、講談社学術文庫)は、蔦屋重三郎の波瀾万丈の生き方を生き生きと描き出している。
新興の町人階級に武士階級の一部も参加して、江戸には上方とは異なる生気溌剌とした文化が育まれ、次々に瑞々しい果実が実っていった。この変革の気が横溢した時代の流れを読み取り、芸術家や学者たちと手を組んで新しい文化の創造に果敢に参加していった版元が、蔦屋重三郎である。やがて寛政の改革という嵐に出合い坐礁を余儀なくされるが、その気迫溢れる生き方から、私たちは多くのことを学ぶことができる。
重三郎は、独創性に満ちた斬新な企画と、これを実現できる力量に恵まれた有能な人材こそが経営の成功の生命線であると考えていた。優秀な戯作者や狂歌師、浮世絵師らとの提携こそ、出版業の発展の不可欠の条件と見抜いていたのである。歌麿や写楽の隠れた能力を見抜いたり、南畝や京伝の傑作を生む下地を作ったりするなど、重三郎の絵画や文学に対する理解力は格段に優れており、芸術への鋭い感性と時代を先取りする実業家としての素質を併せ持った特異な人物であった。浮世絵や黄表紙、洒落本、狂歌本の領分で常に顔を前に向け未来を切り拓いていこうとする姿勢を崩さず、新しい才能の芽を育てて美術、文学の新時代を築き上げていったのである。
重三郎は、良き芸術家を獲得するには相互理解に基づいた信頼関係を築く必要があり、人と人との心の連携が大切であることを知っていた。才能に惚れ込むとその人材への投資を惜しまない、パトロン型の版元だったのだ。そして、重三郎がこの人間関係を強化する舞台として積極的に利用したのが、江戸の遊里・吉原であった。
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『図説 浮世絵に見る江戸吉原』(藤原千恵子編、河出書房新社・ふくろうの本)は、カラーの図と解説が相俟って、吉原を知るのに最適の本である。歌舞伎と遊里は、儒教を道徳律とする当時においてはあくまで社会の必要悪として蔑視された特殊世界であった。しかし、現実にはこの二大「悪所」こそが江戸町民文化を生み出す温床となっており、文化人の社交場として大いに賑わったのである。18世紀後半、京・大阪を凌いで文化の中心地となった江戸では、その中核的担い手である版元、戯作者、狂歌師、浮世絵師のほとんどが吉原と深い関わりを持ち、時代をリードする知識人が集う吉原は江戸の文化・精神に少なからぬ影響を与えたのだ。
特に、吉原に生まれ吉原で育った版元・蔦屋重三郎は、吉原と歌舞伎を股に掛け、江戸っ子の度胆を抜く江戸町人文化最大の仕掛け人となったのである。
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