愛について、性について、男と女について考えさせられるエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(720)】
住宅街でアトリの群れを発見し、びっくりしました。町中でも郊外でも、ツバメの姿が見られるようになりました。巣作りを始めているのです。夜のソメイヨシノは、妖しく輝き幻想的です。因みに、本日の歩数は10,845でした。
閑話休題、『女たちが、なにか、おかしい――おせっかい宣言』(三砂ちづる著、ミシマ社)は、女性も男性も愉しめるエッセイ集です。
「フリーセックスと同棲」は、こんなふうです。「結婚するまでセックスはしてはいけない、処女であるほうがよいのだ、性交渉というものは、新婚旅行で初めてやるものだ、未婚の男女が一緒に住むなどとんでもない。そのような規範が、団塊の世代が青春時代を謳歌し始めるまでは、厳然として存在した。とっても昔の話であるが。団塊の世代は、そのような古びて女性を抑圧するような発想を、次々と、ばきばきと壊していった。小気味よい日々であったろう。・・・団塊の世代から遅れること約10年、わたしたち昭和30年代前半生まれが大学生になるころには、この『フリーセックスと同棲』のエトスは、すでに、深く学生のうちに内在化していた。・・・現在50代くらいの人にとって、学生時代に恋人とセックスする、とか、同棲してしまう、とか、もう、すでに普通のことになっていた、ということだ。・・・同棲もごく普通のこととなり、いまや、恋に落ちた若い男女が一緒に住むことはごく普通のようで、一緒に住んでみて、それから結婚するカップルの多いこと。フリーセックスと同棲、という団塊の世代がつくりあげたスタイルはいまだ健在どころか、いっそうその裾野を広げているのではあるまいか」。
ここで、著者は疑問を呈します。「若い女性たちよ、あまり簡単に男性と寝てはいけないのではあるまいか。・・・自分を大切に、とか、誰とでも寝るんじゃない、とか、本当に大切な人に会うまでは寝ないほうがいい、とかいう『性感染症の時代』の教えはひょっとしてものすごく大事なことだったんじゃないか。団塊の世代が後の世代に残してくれたものってたくさんあるし、その多くはよきものであったのだが、このフリーセックスと同棲が本当によきものであったのかどうか、わたしは自信がなくなってきた。そうは言っても、いったん手にした自由をわたしたちは誰も手放す気にはなれないのであるが」。団塊の世代の一つ前の世代に属する私には、時代の移り変わりを知る勉強になりました。
「女は『女々しい』」には、意外なことが書かれています。「女心、というのは切ない。いつだって連絡を取りたい、いつだってこの人のことを知りたい、いつだって一緒にいたい。そういうものである。メスなんだから、しかたない。一緒に子づくりをしてくれる人を、常に側に置きながら安心して子づくり、子育て、したいのだ。え? あなたは、子どもはいらない? つくる気もない? すみません、でも、ほかならぬ次世代をつくる本能のありようこそが、わたしたちを恋愛に駆り立てるのです。だから女が男にむかうのは基本的に子づくりの欲求なのであります・・・すみません、このへんにしておきますが、やっぱりわたしたちは本能から自由ではない。とくに女は。ようするに女というのは『女々しい』。男よりずっと恋愛にこだわる。女なんだから当たり前だ。女は男のことばかり考えてしまう。男は違います。女のことを、ずっと考えてません。おおよその男は、人生の9割5分は遊ぶことしか考えてません。おおよその『仕事』と呼ばれているもののほとんどは大いなる遊びでしょ? 人生をかけて人生の意味を見いだすための高尚な遊び」。
著者は、インターネット世代の恋愛状況を気遣っています。「BBCでよかった、と思うのは、若くて、生殖時代にあって、なんとか男をゲットしようと恋に燃えているような年代のときに、『LINE』とか『WhatsApp』とか、なかったことである。依存症体質のわたしは、それらのSNSのとりことなり、ほんとに一日中なんにもせずに、恋しい相手との連絡だけ取ろうと24時間考えてしまったにちがいない。ほんとに、今、若くなくてよかった、と思うと同時に、今の若い人の置かれている切羽詰まった恋愛状況がうかがわれて、心配で気が気でない」。なお、BBCとは、Born Before Computer、つまり、コンピューター個人使用が広がる前に生まれた世代を意味しているようです。
「LGBT(性的マイノリティー)」では、危機感を露にしています。「わたしたちの多くは、切なく異性を求める。なぜこの人でなくてはならないのか。世界中にこんなにたくさん男はいるのに、なぜこの男のことにわたしはこんなにふりまわされるのか。なぜこの人の行動のひとつひとつが気になり、言葉のひとつひとつに感情をかき乱されるのか。なぜこの人のことを何でも知りたいと思い、何でも分かち合いたいと思い、この人の寝顔をずっと見ていたい、と願うのか。なせ、この女でなければならないのか。性格も悪いし、すぐにすねるし、しつこいし、しかし他の女は目に入らない。この女を幸せにするなら何でもしたいし、目覚めたら傍らに眠っていてほしい。理不尽な男と女の求愛行動は、次世代を残そうとする本能にかなりの部分ドライブされているのであろう。その切なさを生活、という実態におきかえて日々をより美しく生きていくために、人間は結婚したり、家族をつくったりしてきたのであろう。世界中で多くの男と女はそんなふうに生きてきた。それがマジョリティーと呼ばれる、『性』の『典型』であったのだ。そこが安定していると、すなわち、男と女が安定した性のパートナーを得て、それなりに暮らせていると、身近な世界はおおよそ平穏であることを人類は学んできていたのだと思う」。
著者は、日本のセックスレス増加を憂えています。「マジョリティーの男女がセックスレスになり、結婚することのハードルがあまりに高くなり、子どもも産まなくなったり、産めなくなったりしてくると、『性』を大切なものとして生きる、という人間の根幹が疑われるようになり、セクシュアルマイノリテイーであることの発言が、『自らが性的であること』の特別な表明になってしまうのだ。わたしたちは、人類がたどったこともない、おそろしい時代を生きようとしているのではないのか。男と女は、もっと愛し合いたい」。
愛について、性について、男と女について、いろいろと考えさせられる一冊です。