『資本論』に世界文学がしばしば顔を出す理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(758)】
総苞が白いヤマボウシ、桃色のヤマボウシが咲き始めています。キリの薄紫色の花が芳香を漂わせています。チェリーセージ(サルビア・ミクロフィラ)が真っ赤な花を咲かせています。チェリーセージ・ホットリップスが赤と白のツートン・カラーの花をたくさん付けています。赤い紙風船のような萼の下に黄色いランプみたいにぶら下がっているウキツリボクの花がそよ風に揺れています。花弁が赤、桃色、白で染め分けられているヴァーベナが目を惹きます。因みに、本日の歩数は11,081でした。
閑話休題、『名作が踊る「資本論」の世界――シェイクスピア、ダンテ、セルバンテス、シラー、ハイネ・・・』(川上重人著、本の泉社)は、カール・マルクスの『資本論』の中にしばしば登場する世界文学について考察しています。
「『資本論』のなかに突如としてあらわれる世界文学の中の台詞や登場人物がいきなり顔を出してくるのには正直戸惑ってしまう。シェイクスピア、ダンテ、ハイネ、シラーといった世界文学の旗手たちの作品が何故に『資本論』に登場するのかを長年にわたって考えてきた。当初は右往左往したものの、これらの文学作品は『資本論』に見事に融合し、『資本論』の世界をいっそう豊かにしているのではないだろうか、との考えに至った。『資本論』に登場する名作には一つの共通点がある。それはアイロニーが満ち溢れているということだと思う。・・・私は『資本論』のなかの名作をどう捉えるかということを考えた時、この『アイロニー』をあえて意識してみた。すると目の前の作品が踊り出し、『資本論』の世界が豊かに照らし出されるのだ。本書は『資本論』に描かれる世界文学の『瞳』にアイロニーという『目薬』を垂らした結果生まれたものである」。
文学作品の『資本論』への登場の仕方には、①作家や詩人の名だけが登場、②作家や詩人の名はなく、文学作品だけが登場、③ある作品の登場人物の名や台詞が何の説明もなくいきなり登場――という3通りがあるそうです。
例えば、フリードリヒ・フォン・シラーの詩「鐘によせる歌」の場合は、こんなふうです。「特別剰余価値を手にしうる時期は資本家Aにとって一時の喜びにすぎない。マルクスはユーモラスで茶目っ気たっぷりに、このような特別剰余価値の運命を(シラーの)『青春の初恋の時代』と重ねた。・・・どんなにその恋が輝いていようとも初恋の多くはやがて終わりをつげる。マルクスは『青春の初恋の時代』とかけて『特別剰余価値』と解いた。その心はいずれも『いっときの夢』である。資本家は利潤を求めて特別剰余価値の時期を得ることに必死である。しかし、仮にその時期が来たとしても、『いっときの夢』のように短いものである。人間の純真さや恥じらい、そして青春の輝きとしての『初恋』は美しい時間で、これまた例外はあるにしても通常は『いっときの夢』で終わる。二つはまったく異質のものであるが、マルクスの言わんとすることには合点がいく。難解な『資本論』に文学の世界を重ねることで、その理論を瞬時に読む者の心に刻みこむとは、さすがとしかいいようがない。それはまた『資本論』を読む魅力のひとつでもある」。
ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソ』のケースは、こう解説されています。「ロビンソンの労働は、商品を生産する労働ではない。ロビンソンはどんなに生産物をつくろうと交換できる相手はだれ一人としていない。・・・ロビンソンの生産物はすべて有用性(=使用価値)をもつものであっても、交換されるものではないから価値(交換価値)をもたない。・・・ロビンソンは自分のために働き、生産物はすべて自分が所有する。原始的な自給自足の生産であり、商品に転ずることのない生産物からは物神的性格は生まれない」。
「マルクスの人間の研究対象は、生産における人と物との関係や物と物との関係ではなく、人と人との関係、つまり生産関係をめぐる人間を考察したのであって、資本主義社会における人間を人間類型として一般化して捉えようとしたのではない。資本家と労働者のそれぞれの階級の本質を解き明かし、労働者階級の解放を問題にしたのだった」。
若い時分、至極難解な『資本論』を読み進めるのに四苦八苦したことを懐かしく思い出してしまいました。あの頃、本書に出会っていたら、どんなに救われたことでしょう。