本書のおかげで、島津斉彬のプロファイルがくっきりと見えてきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(897)】
朝、小学校での読み聞かせヴォランティアを行い、雨上がりを見計らって散策に出かけました。ピンクノウゼンカズラが薄桃色の花を咲かせています。今年の中秋の名月は10月4日ですが、満月は10月6日と2日のずれがあります。因みに、本日の歩数は10,012でした。
閑話休題、『島津斉彬』(松尾千歳著、戎光祥出版)のおかげで、私の頭の中でぼんやりとしていた島津斉彬(なりあきら)のプロファイルがくっきりとしてきました。
お遊羅(ゆら)騒動の真相が明らかにされています。「お遊羅騒動は、端から見ると、正室の子斉彬と側室(お遊羅の方)の子久光が家督を争ったような形となり、両者はライバル関係にあったかのように見える。しかし、お遊羅騒動は、斉彬の支持者たちの誤解によって引き起こされたもので、お遊羅や久光はなにもしていない。・・・斉彬は久光を高く評価しており・・・。ただ、一般の藩士たちは、事件の真相や人間関係などを知らなかった。なかには(斉彬に対する)呪詛の話を信じ続け、お遊羅や久光に良い印象をいだけない者もいた。斉彬に見いだされて活躍するようになった西郷隆盛もその一人である」。
「(斉彬は)藩主就任と同時にまず軍備の近代化・強化に取り組んだのである」。具体的には、鉄製大砲の鋳造、洋式軍艦の建造などです。
しかし、斉彬は軍備の強化だけでは日本を西欧列強から守ることはできないと考えていました。人の和と財政の礎を固めるべく、ガラス工芸品の製造や紡績・食品加工などの産業の育成、電信や教育・医療などの社会基盤の整備に鋭意、取り組みました。
「斉彬はペリー来航を冷静に受け止めていた。実は、1年ほど前の嘉永5年7月、鹿児島在国中に『和蘭風説秘書』を入手し、ペリー艦隊が来航することを知っていたのである。薩摩藩はかねてから長崎の和蘭通詞を抱き込み、オランダからもたらされる情報を密かに得ていた。『和蘭風説秘書』もこのルートでもたらされたもので、来年、蒸気船を含むアメリカ艦隊が江戸近海に来航して通商を求めること、そして『上陸対戦の用意』をしていることが書かれていた」。
「世界情勢に通じた斉彬は、攘夷が不可能であることを知っていた。本心を隠す必要がない家臣に対しては、攘夷論のことを『無謀の大和たましい(魂)の議論』と書き送っているくらいである。斉彬の本心は、軍備を強化し、産業を興すなど準備を整えたうえで、諸外国と積極的に交わるべきというものであった。・・・若い頃から世界地図を眺めていた斉彬は、日本に開国を迫っているイギリスやフランス・アメリカがいかに大きな国か、そして日本がいかに小さな国かを知っていた。小さな日本の中で、幕府だの藩だの言っている場合ではない。日本が一丸となって近代化に取り組まないと、植民地化を免れることはできないと考えていたのである」。
一方、斉彬のやり方は、いいことずくめではありませんでした。「斉彬の政治の弱みは、家老ら藩内の重臣たちに自分の考えを十分伝えることができていなかったことである。めまぐるしく変わる情勢、これに対処するため、斉彬は自ら陣頭にたって指揮し対処した。非常に先進的な思想・知識に基づいて行動したため、保守的な重臣たちは斉彬についていけなかった。また、緊急を要するものが多く、斉彬も重臣たちに自分の考えをていねいに説明する余裕はなかった。藩主自ら現場の担当者に直接指示を出して動かしていたのである」。
斉彬が49歳で死去した後、「斉彬の弟久光が(自分の息子で、藩主を継いだ忠義の)後見役となり、やがて藩の実権を掌握、西郷隆盛や大久保利通らとともに幕末維新期の薩摩藩を牽引していくことになる。彼らが目指したのは、『順聖院(斉彬)様御深志』の実現であった。共通の目標を持っていたからこそ、薩摩藩は分裂せず、幕末維新期に主要な役割を果たすことができたともいえる。・・・『順聖院様御深志』というのは、公武合体の実現、すなわち朝廷・幕府・藩という枠を越えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強から植民地化されないような国にすることである。また、無謀な攘夷はすべきでないというのも斉彬の遺志であった」。
斉彬という先進的で大局的な視野を持ち、実行力を兼ね備えた人物に対する理解を深めるのに、本書は最適な一冊です。