奥本大三郎は、いかにして昆虫少年になったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(944)】
一日中、しとしとと雨が降っているので、散策は諦めました。その分、読書が捗ります。
閑話休題、『蟲の饗宴――僕はこうして虫屋になった』(奥本大三郎著、世界文化社)は、著者がいかにして昆虫少年になったかが綴られているエッセイ集です。
「青蜂(セイボウ)――ジガバチの増上慢を懲らすもの」の項には、こういうことが書かれています。「ジガバチはイモムシをつかまえてきて麻酔をほどこし、土の中に掘った穴の中に入れて卵を産みつける。獲物は麻痺させられているだけで死んではいないから、卵から孵った蜂の幼虫は新鮮な、というより生きている肉を食いながら大きくなるのである。・・・(ジガバチのような)狩人蜂の類は天下無敵なのかというと、無論のことそうではない。ジガバチにはセイボウという天敵がいる。セイボウは小さな蜂であるが、青や緑や赤に輝いていて、金属製の細工物のような趣きがある。この小さな蜂が獲物にされた蜘蛛やイモムシの敵を討つ。セイボウがジガバチの巣に卵を産みつけ、その幼虫がジガバチの卵を吸い、貯蔵された食糧を失敬して育つのである。これを重寄生と言うのだそうである。テキ屋からショバ代を取りたてたヤクザの、そのまた上前をはねるような凄い奴で、この手の虫は皆小柄で一見弱々しくみえるところがまた無気味である。蜘蛛が蝶蛾を捕えて食う、その蜘蛛を狩人蜂が専門に狩る。蝶蛾の敵は狩人蜂が討ち、蜘蛛の敵はセイボウがやがて討つ。因果は廻る糸車。誰も怨みっこなしである。そしてもしこういう関係がなかったなら、イモムシにしてもジガバチにしても増えすぎてしまう可能性がある。ジガバチばかりが増えすぎるなら、蜂の方もやがてイモムシを食い尽くして自らも滅びる運命になる事は目に見えている。だからこの食物連鎖こそが自然のコントロールである」。
「銀蜻蛉(ギンヤンマ)――炎天下 仮死の世界を支配する者」の項は、こんなふうです。「大事の大事は、あくまでもギンヤンマとの対決である。毎日、同じ水田に同じようにして雄が一頭いた。四角く区切られた水面は、すなわち彼の領地である。ぎらぎら光る水の上を悠々と飛ぶこのヤンマには素晴しい存在感があった。夏の真昼の沈黙の世界の王者なのである。網の柄を横にかまえて、じっと睨みあいをする。蠱惑に全身が輝いている。ときどき挑発するように空中に静止して、こちらの出方を窺うようなこともする。大きな碧緑の目が、じっと私の目をとらえている。気押されそうになって網を振るとひょいと身をかわす。網の射程はちゃんと読んでいて、間は充分にとっている」。この夏、私もこれと全く同じ経験をしました。ギンヤンマはまさに真夏の王者です。
「蟋蟀(コオロギ)――霜夜の哀音か熱帯の大音声か」には、こうあります。「夜、着物姿にステッキを突いて田圃道を散歩に出かける父親のあとを、母や他の兄弟姉妹と一緒について行くと、昼間跳ねていたその場所で連中(エンマコオロギ)が鳴いている。優しく寂しく甘く、それこそ秋の月の光を音にしたような高雅な声である。子供のように頭ばかり大きく、黒い顔の地下(じげ)の身でありながら、その音色は貴人の笛の音もはるかに及ばぬ天性の美音である。眠れぬ夜に強いて私はあれこれ楽しいことを考える。その一つはあまり広くなくていい、手頃な庭のある家に住み、縁側に肘枕をして寝ころびながら、庭中にすだくエンマコオロギの声を聞くことである。・・・あんまり声の大きくない友達が思いもかけず訪ねてきて二人で飲む。話の合間に虫の音に耳を傾ける」。著者は、「私に言わせれば虫の声はカンタンよりも何よりもエンマコオロギに止めを刺す」と断言していますが、私も同意見です。